『やはり』

『やはり』という言葉
前の状態とか他のものとかと(結局は)違わないこと、予想・期待の通りであることを表す語。①前と同様。依然として。②予想にたがわす。③期待どおりに。何のかの言っても結局は。
【岩波国語辞典第4版引用】
 論文を書くときに一つの鉄則がある。『やはり』を乱用しないことだ。論文でなくても、論理的な話をする場合に『やはり』を頻繁に使用するのは避けた方が良いとされている。理由は、『やはり』を使用すると今までの論理的議論の積み重ねが一瞬のうちにして無意味になってしまう可能性があるからである。最初から予想できるのであればそれを明確に言及した上で、尚かつ、有意義な議論を積み重ねなければならない。「結局言ったとおりになったでしょ」というような結論では、まるで諦めているような、悪い印象を与えかねない。もちろん正しく使用すれば『やはり』という言葉も有効に機能することもある。しかしながら、現在ではこの言葉を使いすぎているような気がする。
 誰が使いすぎているのか?我々も『やっぱ~』と連呼することも多い。けれども一番よく耳にするのがいわゆるTVに出てくるコメンテーターや評論家・あと代議士と呼ばれる方々である。『やっぱり~ですよね』このようなコメントを連呼する。少々不快感を覚える。あなた方には予想範疇かもしれないが、素人の我々には分からないのだからもっと分かりやすく説明して欲しい。加えて、たいてい『やはり』の後には結論が述べられることが多い。しかし、『やはり』『やっぱ』『やっぱり』を乱発されると、いったいどれが本当に言いたいことなのか分からなくなってしまう。
 普通の会話で『やはり』が多用されてしまうのは仕方のないこととして、言葉を武器として生活している人にはちゃんと使用して欲しい。『やはり』『やっぱ』『やっぱりさ』ってあんたたちはだだっ子じゃないんだから、そんな陳腐な言葉を使わなくても人々を論理的に納得させてみて欲しいものだ。

私とピアノ

 最近、自分の20年あまりの時間を見直そうと、少し考えている。
 家族によると私がピアノを弾き始めたのは突然だったそうだ。いくらなんでもそんな事はあるわけもなく、たしかに理由がある。
 小学生の時、ピアノがわが家にやってきた。もうぼろぼろの古いピアノである。中学校の校舎改修に伴いピアノを引き取ったのだそうだ。CDを一枚も持っていないほど音楽に対して興味が皆無の少年は興味を示すはずもなく、しばらく放置されていた。
 中学生になり、あることをキッカケにピアノを弾き始めた。ただ単に憧れたのだ。その頃、私は勉強という道をあきらめ始めていたし、いわゆる表現することに興味を抱き始めていた時期だった。しばらくして、親にピアノ教室に通うかどうか聞かれたが、私にはそんな選択肢はまったくなく、ひたすら好きな曲を弾いていた。
 毎日のようにピアノを弾き、そして弾くだけでは満足がいかず、作曲をはじめ、音楽が好きになり、そしてCDを購入したとき、ジャケットの画に影響され画を描き始めていく。そんな巡り会いがあって、今の私があるようなもので、大げさかもしれないが、あの時、ピアノに憧れなかったら少しは私の人生も変わっていたかもしれない。
 ところが、大学生になり、ピアノを弾く機会はめっきり減った。周りにはピアノのうまい人はたくさんいるし、独学で弾くようになった人も何人もいる。絶対音感を持つ人はうらやましいと思うし、決して上手くなくても本当にピアノが好きな人がいる事も知った。一方で自分はピアノが無くても、作曲はできるし、生活はできてしまうし、たまぁにストレス発散に弾く程度である。実家に帰省しても、あの古いピアノを弾いてあげる機会も減った。
 ピアノのおかげで確実に私の人生は変わった。けれども今はピアノから遠い位置にいる気がする。もっとピアノの事を好きになってもいいかもしれない。決して上手く弾けるわけではないし、レパートリーは少ないし、絶対音感もない。高校の時に人前で発表する快感を味わったけど、その感覚はピアノでは無くても満たすことができる。これからはピアノを弾くということを純粋に陶酔したいと思う。
 ピアノを弾くとき心がけていることが2つある。
・ピアノを弾く前は必ず手を洗うこと
・鍵盤は強く叩かないこと
 一つ目は鍵盤が汚れると弾きにくいから。二つ目はうるさいから。たまぁに若さに任せて弾く人がいるけど、そういう弾き方はあまり好きじゃない。

私の映画論Ⅱ

□シネマトグラフィー
 シネマトグラフィーとは何ぞや?いわゆる映像における文法である。そんなものを意識しながら映画を見るなんてどうかしてると思われるかもしれないが、私の映画鑑賞はたいてい右脳で感動し左脳で冷徹に分析していることが多い(おそらくは)。技巧に走った頃は映画の1カット1カットを分析していたし、好きだった映画は映像のつながりから台詞まで全部を記憶したものだった。
※技巧的な話や歴史なんかは文献を読んでいただければ分かることなので、私なりのシネマトグラフィーを解釈してみたいと思う。
 メディアにはフォーマットが存在する。言語にしろ本にしろ、また映像にしろ然り。ある程度、そのフォーマットに従わなければ人に伝えることができない。映画という言語のフォーマットを考えるとき、つまりシネマトグラフィーを意識することで、本来その映画が伝えたいことをより確実に受け取ることができる。かえって意識すると感動しにくいのではないかと危惧されがちだが、それは感受性の問題で、まずは正確に制作者の意図をくみ取らなければ感動もなにもないだろう。シネマトグラフィーを意識するとはいえ、良い映画は無駄なカットも技巧も演出もなく、何事もなく見終える事ができる。下手な映画は指摘したくなり、映画どころではなくなってしまう。
 視聴者がシネマトグラフィーを知らなければならいというものでもない。制作側は必須だといえる。映像という一方的なメディアは制作側が視聴者に対して最大限の考慮をしなければならない。内輪ネタでおわったり、「表現はかっこいいんだけどね」独りよがりで終わっても困る。
 去年あたり、映画がすごくつまらなく感じたときがあった。先のストーリー展開は予想範疇の中だし、「これはナニナニの技術だー」「誰々がプロデュースしてるー」なんて言っていた。口では感動と分析を両立していると言っていながら、実際はあまりそうでもなかったのかもしれない。とは言いながらも、去年の秋くらいから、「でも、やっぱり映画が好きだな」と思い始めてきた。シネマトグラフィーを意識して見なくなったというわけでは無いが、ストーリーの先が読めたとしても素直に感動できるようになってきた。『努めて鈍感に』意外とこれが今年の目標かもしれない。

アイデンティティの話

※倫理をちゃんと勉強しておくんだった。と今更ながら後悔。
 学術的に誰が研究してとか、そんな事は調べれば分かることで、かといって自分をサンプルにして考察して普遍性を拡張することはナンセンス。けれども、結果自分の振る舞いに大きく影響するのだから、何時かは自分のルーツについて考えなければならないのかもしれない。と、考えてみると、時々そういうことは思いを巡らすことが多く、果てしない思考なので止めてしまう。そんなに暇じゃない。でも、今みたいにテストか終わったり、何もすることが無くなると、昔の思考をぶり返す。
 アイデンティティってなんぞやって事になるといろいろ論争が起こりそうだけれども、簡単に言えばIDと呼ばれるもの。そんな感じと思っていた方がいいと思う。例えば私は一応まだ長野県民であるし、ある大学の学生であるし、ある研究会に所属してもいる。住んでいるのは神奈川県で、少し大きくなると日本の国籍しか持っていない。(周りにはまだ2カ国の国籍を所有している人もいるわけで)。そうやって細かく微分していくと、自分というものは限りなく外部の情報から形成されてしまっているのではないかと思ってしまう。アメリカの映画ですっかりコンピュータ社会に依存してしまった女性が個人情報を書き換えられてまったくの別人に仕立て上げられてしまうというのがあった。(つまり、社会との接点がヴァーチャルネットワークしかなかった)リアルネットワークも大切にしようという警鐘だった。自分と関連のある情報をすべて削除してしまったら、自分は確かに生きているのに社会から認知されない。死んだも同然だ。(「lain」というアニメがそれをモチーフにしている)
 外部とのリンク以外にアイデンティティが依存できるとしたら、あとは自分の記憶しかない。事実、昔日の体験や思考の記憶に依存して振る舞うことが多い。例えば私はあることがキッカケでピアノを弾き始めましたとか。実際に起こったことなんだけれども、私は最近、記憶のバグを発見してあるアイデンティティの後ろ盾を見失ったことがあった。いわゆる勘違いである。そこで思いついたのが『アイデンティティは過去の事実に依存するのではなく、むしろ今現在の過去の記憶に依存する』という事だ。確率過程で言うマルコフ性に近いものがある。未来は現在の状態のみに依存するってこと。これについては自分で思いついた割に納得がいった。

私の映画論Ⅰ

[葛藤は面白い?]
 そのまんまです。葛藤がなければシナリオなんて成り立たない。葛藤もなく平和な日常など誰も観たいとも思わない。他人の不幸に興味があったり、なにも映画に限ったことではなく、エンターテイメントと呼ばれるコンテンツにはこの要素は必須だろう。映画のコンテンツにはいろいろなパターンがあるけれども、包括的に(強引に)『葛藤』という言葉に集約できる。私はアンチハリウッド・アンチディズニーな人だが、それを含めて売れる映画・面白い映画と呼ばれる代物には絶対と言っていいほど『葛藤』が入っている。観客はそのなんとなく『葛藤』に共感する。人生は選択の連続でさまざまな『葛藤』を経験しているからだ。
[アクションの葛藤]
 いわゆる善と悪とか。一番単純。展開がわかりやすいから安心できるけど、あんまり好きじゃない。あと、こういうのものバックストーリーには主人公の精神的葛藤が多い。少年から青年へ、みたいな展開になる。
[パニックの葛藤]
 そもそもパニックってことで葛藤の原因になるけれども。たいてい制限がつきまとう。「あと何日で・・・」とか、舞台が電車の中だけとか。なぜかハリウッドはそこでラブロマンスを絡ましてくるから、あんまり好きじゃない。
[コメディの葛藤]
 これは明確。登場人物で大人は子供みたく振る舞い、子供は大人みたく振る舞う。あくまで振る舞う。ちょっとズレているわけで観客から「そうぢゃないだろ」ってツッコミが入れば成功。
[SFの葛藤]
 非日常的な世界観に日常的な振る舞いを持ち込む。「宇宙人も居酒屋にいくんだぁ~」みたいな。トーンの制御とも言うけれも、さじ加減が難しいところ。
[戦争の葛藤]
 戦争は2つの衝突から起こるのだから、葛藤そのものと言っていいくらい。ハリウッドは結局、自己犠牲とか兵士同士の友情にとどまらせてしまうので嫌い。そもそも米国万歳な映画なので問題外。そうぢゃないんだってば。敵味方なんて関係なく、双方からの視点を描写することが必要。特に戦争モノは視点が偏りがちになるので、一歩ひいて中間から客観的にみてみろって事です。
 ということで、『葛藤』を意識して映画を観ていると、客観的に理解しやすくなるのではないだろうか。いまいちその『葛藤』に共感できないとすれば、それは経験していない『葛藤』で、それを理解した上で素直に感動してあげることができれば、『葛藤の疑似体験』をしたことになる。『映画から道徳・社会を学べる』と言うアナリストもいたくらいで、たしかに納得。昔はそういう役割は本が担っていたんでしょうけど。今はゲームですかね。
 何かを表現するにも『葛藤』を意識すると、適当でもそれなりのモノが作ることができたりする。昨年の春に作ったCGムービーでも、シナリオは『SFの葛藤』を意識して制作した。それなりに面白かったし、とてつもないキレはないけれど、安定したクオリティを保持できた。
 「だからどうした」って言われるとそれまでなんだが、そんなルールを見つけるのも表現をする上での一つの手かなということ。