私の映画論Ⅱ

□シネマトグラフィー
 シネマトグラフィーとは何ぞや?いわゆる映像における文法である。そんなものを意識しながら映画を見るなんてどうかしてると思われるかもしれないが、私の映画鑑賞はたいてい右脳で感動し左脳で冷徹に分析していることが多い(おそらくは)。技巧に走った頃は映画の1カット1カットを分析していたし、好きだった映画は映像のつながりから台詞まで全部を記憶したものだった。
※技巧的な話や歴史なんかは文献を読んでいただければ分かることなので、私なりのシネマトグラフィーを解釈してみたいと思う。
 メディアにはフォーマットが存在する。言語にしろ本にしろ、また映像にしろ然り。ある程度、そのフォーマットに従わなければ人に伝えることができない。映画という言語のフォーマットを考えるとき、つまりシネマトグラフィーを意識することで、本来その映画が伝えたいことをより確実に受け取ることができる。かえって意識すると感動しにくいのではないかと危惧されがちだが、それは感受性の問題で、まずは正確に制作者の意図をくみ取らなければ感動もなにもないだろう。シネマトグラフィーを意識するとはいえ、良い映画は無駄なカットも技巧も演出もなく、何事もなく見終える事ができる。下手な映画は指摘したくなり、映画どころではなくなってしまう。
 視聴者がシネマトグラフィーを知らなければならいというものでもない。制作側は必須だといえる。映像という一方的なメディアは制作側が視聴者に対して最大限の考慮をしなければならない。内輪ネタでおわったり、「表現はかっこいいんだけどね」独りよがりで終わっても困る。
 去年あたり、映画がすごくつまらなく感じたときがあった。先のストーリー展開は予想範疇の中だし、「これはナニナニの技術だー」「誰々がプロデュースしてるー」なんて言っていた。口では感動と分析を両立していると言っていながら、実際はあまりそうでもなかったのかもしれない。とは言いながらも、去年の秋くらいから、「でも、やっぱり映画が好きだな」と思い始めてきた。シネマトグラフィーを意識して見なくなったというわけでは無いが、ストーリーの先が読めたとしても素直に感動できるようになってきた。『努めて鈍感に』意外とこれが今年の目標かもしれない。