私の映画論Ⅰ

[葛藤は面白い?]
 そのまんまです。葛藤がなければシナリオなんて成り立たない。葛藤もなく平和な日常など誰も観たいとも思わない。他人の不幸に興味があったり、なにも映画に限ったことではなく、エンターテイメントと呼ばれるコンテンツにはこの要素は必須だろう。映画のコンテンツにはいろいろなパターンがあるけれども、包括的に(強引に)『葛藤』という言葉に集約できる。私はアンチハリウッド・アンチディズニーな人だが、それを含めて売れる映画・面白い映画と呼ばれる代物には絶対と言っていいほど『葛藤』が入っている。観客はそのなんとなく『葛藤』に共感する。人生は選択の連続でさまざまな『葛藤』を経験しているからだ。
[アクションの葛藤]
 いわゆる善と悪とか。一番単純。展開がわかりやすいから安心できるけど、あんまり好きじゃない。あと、こういうのものバックストーリーには主人公の精神的葛藤が多い。少年から青年へ、みたいな展開になる。
[パニックの葛藤]
 そもそもパニックってことで葛藤の原因になるけれども。たいてい制限がつきまとう。「あと何日で・・・」とか、舞台が電車の中だけとか。なぜかハリウッドはそこでラブロマンスを絡ましてくるから、あんまり好きじゃない。
[コメディの葛藤]
 これは明確。登場人物で大人は子供みたく振る舞い、子供は大人みたく振る舞う。あくまで振る舞う。ちょっとズレているわけで観客から「そうぢゃないだろ」ってツッコミが入れば成功。
[SFの葛藤]
 非日常的な世界観に日常的な振る舞いを持ち込む。「宇宙人も居酒屋にいくんだぁ~」みたいな。トーンの制御とも言うけれも、さじ加減が難しいところ。
[戦争の葛藤]
 戦争は2つの衝突から起こるのだから、葛藤そのものと言っていいくらい。ハリウッドは結局、自己犠牲とか兵士同士の友情にとどまらせてしまうので嫌い。そもそも米国万歳な映画なので問題外。そうぢゃないんだってば。敵味方なんて関係なく、双方からの視点を描写することが必要。特に戦争モノは視点が偏りがちになるので、一歩ひいて中間から客観的にみてみろって事です。
 ということで、『葛藤』を意識して映画を観ていると、客観的に理解しやすくなるのではないだろうか。いまいちその『葛藤』に共感できないとすれば、それは経験していない『葛藤』で、それを理解した上で素直に感動してあげることができれば、『葛藤の疑似体験』をしたことになる。『映画から道徳・社会を学べる』と言うアナリストもいたくらいで、たしかに納得。昔はそういう役割は本が担っていたんでしょうけど。今はゲームですかね。
 何かを表現するにも『葛藤』を意識すると、適当でもそれなりのモノが作ることができたりする。昨年の春に作ったCGムービーでも、シナリオは『SFの葛藤』を意識して制作した。それなりに面白かったし、とてつもないキレはないけれど、安定したクオリティを保持できた。
 「だからどうした」って言われるとそれまでなんだが、そんなルールを見つけるのも表現をする上での一つの手かなということ。