CDCC 2003

バイト先に近いのに行ったのは最終日の前日。
Canon Digital Creator Contest 2003 を見に行きました。なんだかね。ええ、よかったですよ。写真はやっぱり綺麗だし。面白いのもあったし。でもね、デジタルとかアナログとかの区別するのはそろそろどうなんだろと思ってしまう。どっちでもいいじゃん。質のいい表現ができればさ。

世界のコマーシャル2003

世界の傑作コマーシャルというだけあってどれも傑作なのはあたりまえ。
海外のCMが新鮮に見えるのは当然なのですが、日本のCMより好きかも知れません。どのCMも映像作品としてのクオリティも高く、しかも広告としての役割を充分に果たしている。最近の日本のCMにありがちな、「ちょっと格好いい事してる」「ちょっと小粋な事してる」というようなCMは一切無かった。加えて、言葉が通じなくても分からなくても、ストーリーや広告の意味がちゃんと分かるのである。少々、下品なところは私は好きではないですが。
つまりは、どの作品もラディカルであるのだ。

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死への願望

 いきなり重い内容ですいません。
 こんな告白をしてしまって良いのだろうか(汗)
 私は中学くらいの時から自殺願望があると思っている。自傷願望とは確実に違う。自分の身体を傷つけることなんてできっこないし、なにより自分が大事なのだから。逆にそれがジレンマを生んでいる。自殺願望はあるけれども、それを出来る勇気も無い。自殺願望というよりは、死への願望があるのだと思う。いっそのこと殺してくれと冗談で言ったりしたけれども、半分本気だったりする。死に対して何か道義的な意義が発生すれば、私はためらいもなく自分の命を差し出してしまうのでは無いかと思ったこともある。
 昔は自殺は卑怯だとか、生きていれば何とかなるとか、どっかの受け売りみたいな事を言っていた時期もあった。しかし、それはまったく説得力がなく、自分でも腑に落ちないところがあった。自殺の原因は絶望だけなのだろうか。私の見いだした答えは「虚無」である。おそらく私は何も無くなった時に自殺するだろうと。人は何も無くなったときに自殺する。というか、死んでも許される。実際、私の自殺行為を思いとどまらせているのは家族や友人の存在であったり、まだまだやり残したことがあるわけで、自殺でなくて、病死しても私は死にきれない。むしろ、自分の死を少しでも意識することで、「虚無」を感じなくしようとしている意図がある。矛盾するようだが、死への欲望は生きることの原動力になっている。
 しかしながら、今年の2月に以下の事で悩んでいた。否、今も悩んでいる。それをなんとかある話(まだ完成していませんが「優秀児」という話。主人公の友人が自殺し誰宛か分からない遺書が見つかる)に昇華し今は逃避しているのですが、その話に出てくる遺書の内容が私の心情を如実に示唆しているので転載して、この考察を一旦終了したいと思います。

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conception : cafe

 この家頁を開設する当初から「cafe」という概念を考えてきた。それは単なるお茶が出てくる場所・名詞ではなく、「cafe」っぽいという事を考えてみたくなったのである。漠然と以下のモノは私の中で「cafe」として形容できるものなのだ。
・例えば色:橙・蒼・白から黒へのグラデーション
・例えば場所:自由が丘あたり。スタバはcafeそのもの。あとは座れるところ。
・例えば様子:お茶を飲む。会話をする。ちょっと気取る。
 そう感じ取った場所・瞬間に写真を撮り続けてきた。最初は言葉に縛られすぎたのか、お茶を撮っていたけれども、だんだんとその周りと撮るようにもなっていた。おそらく「cafe」という雰囲気に魅了され、「cafe」っぽいトーンを探すようになっていたのだと思う。
 私は次にconception:「walk」(散歩)に移行したが、1年間、思考し探した、このconception:cafeを元にして、そろそろ何か表現できないかと考えている。写真を撮りだめていたのはいわばサンプル採集みたいなモノで、メディアを先に選ぶと言うより、それは後で選びたい。つまり、「cafe」というconceptionでデザインしたいと思っている。それが「思考のデザイン」の一歩だと考えている。

私とストーリー

 私はよほど本が嫌いらしい。人の文章はまず読まないし、よほど構えないと読まないし、読んでも一回では理解できない。そのくせ、文章を書くことは好きで、しかしながら、書いても口述式が多い。まどろっこしい文章は苦手で、書いても誰かの真似である。だから語彙力がない。
 それでも小学生くらいまでは何かしら読んでいたようだ。嫌いになったのは周りに本を読む人がたくさんいたからだと思う。母親や兄は恐ろしいほど本を読む。負けず嫌いな上に臆病な私の事だから、そのフィールドから逃げ出したようなものだ。加えて、自分の頭の中にストーリーが巡り始めたこともあると思う。教科書に載っている童話の続きを書いたり、そんな事から始まった。
 私の書く話は恋愛モノが多いように見えるけれども、実はそうでもない。最初は童話を書いていたし、次は映画を意識したsfっぽいもの。恋愛モノは高校になってからだ。しかしながら、私にとって重要なのはストーリーそのものであって、表現方法はそれぞれバラバラである。最初は文章を書くことしかできなかったけれども、画を描き、映像を撮れるようになってきた。小説とか脚本とか特に区別はしていない。ただ、文章力がないので(言葉を使った表現能力がないので)、私の書くストーリーはいつも脚本っぽい。
 発見したストーリーは映像で最初から最後までものすごいスピードで完結してしまう。一つ一つ思い出しながら文章にしていっても、なかなか完璧に再現できない。次に思い出したときには別の展開になってたりして、どうにも、ずくがないと表現することは難しいようである。でも、そのストーリーは確実にそこにあって、もどかしくたまらなく、フラストレーションの一つの原因となっている。
※今、一つのストーリーを書きたくなっている。この話は小学校の時に思いついたもので、何年もねかせては掘り起こして構想を練っている。今度もまた未完成でお蔵入りになってしまうかもしれない。