死への願望

 いきなり重い内容ですいません。
 こんな告白をしてしまって良いのだろうか(汗)
 私は中学くらいの時から自殺願望があると思っている。自傷願望とは確実に違う。自分の身体を傷つけることなんてできっこないし、なにより自分が大事なのだから。逆にそれがジレンマを生んでいる。自殺願望はあるけれども、それを出来る勇気も無い。自殺願望というよりは、死への願望があるのだと思う。いっそのこと殺してくれと冗談で言ったりしたけれども、半分本気だったりする。死に対して何か道義的な意義が発生すれば、私はためらいもなく自分の命を差し出してしまうのでは無いかと思ったこともある。
 昔は自殺は卑怯だとか、生きていれば何とかなるとか、どっかの受け売りみたいな事を言っていた時期もあった。しかし、それはまったく説得力がなく、自分でも腑に落ちないところがあった。自殺の原因は絶望だけなのだろうか。私の見いだした答えは「虚無」である。おそらく私は何も無くなった時に自殺するだろうと。人は何も無くなったときに自殺する。というか、死んでも許される。実際、私の自殺行為を思いとどまらせているのは家族や友人の存在であったり、まだまだやり残したことがあるわけで、自殺でなくて、病死しても私は死にきれない。むしろ、自分の死を少しでも意識することで、「虚無」を感じなくしようとしている意図がある。矛盾するようだが、死への欲望は生きることの原動力になっている。
 しかしながら、今年の2月に以下の事で悩んでいた。否、今も悩んでいる。それをなんとかある話(まだ完成していませんが「優秀児」という話。主人公の友人が自殺し誰宛か分からない遺書が見つかる)に昇華し今は逃避しているのですが、その話に出てくる遺書の内容が私の心情を如実に示唆しているので転載して、この考察を一旦終了したいと思います。


『はじめに自死すると言うことは絶望や外的な因果があるのではなくて、自分の中での理性と思考の結果でなのです。したがって自殺という言葉はあまり好きではありません。絶望だけではなくて、私自身この世界に存在することが許せないのです。
 決定的なのは必要性の問題です。誰かに必要とされたり必要としたり、依存したくて・されたくて、とは言え、誰にも必要とされなくても生きてはいける気がします。誰にも迷惑をかけず、邪魔をせず、それでも飄々と生きる。自分の心を固く閉ざし、他人と溶け合おうとせず、表層的とはいえ社会は私を何故か放置しておかない。本質的ではないにせよ、必要性が皆無にせよ、自死を考える要因にはなりえません。では、必要性が負になった場合はどうか。「むしろいない方がいい」「いない方がうまく世の中は巡っていく」果てしない思考の末、この場合、自死を受け入れる覚悟は、むしろ積極的に死への欲求が高まるのを感じているのです。誰かに負の必要性を促されなくとも、自分でそう判断したとき、それは思考と理性の結果であり、言い換えると生きる罪の贖いなのです。確実にあなたは私を必要としてない。むしろ不要な存在である事を重々自覚しています。
 私の中であなたへの情報をすべて消去すれば、限りなく死に近い価値を見いだせると信じていました。けれども、生ある限りそれは不可能です。物理的な処理か別の方向性の解決策が考える必要があります。他人など所詮、理解しがたいもので、ただ理解しようという姿勢が重要になるわけで、何かの悪循環を抜け出すにも話し合う事が必要だと思っていました。それすらできない。何も思考しない事も考えました。ただそれは病的に狂気に生への疑念が募るばかりです。ただ、そこでそれすら踏み出せない勇気のなさに自分の醜さを自覚させられ、よけいな自己嫌悪に陥るのです。
 絶望からの自死はありえません。合理的に自分の死が最良だと判断したのです。そこには激しい自己嫌悪と生への疑念がうずめいています。せいぜいこんな事は何か別の表現で昇華できたものですが、私は表現することに臆病になってしまいました。表現には責任があります。たとえフィクションでも戯言でも私が表現したものには責任を持たなくてはならなりません。死への欲求を表現したところで周囲にはよけい迷惑をかけるだけで、意味のないことなのです。
 最期に私は感謝をしたい。私は酷い人間です。こんな私と関わってくれるだけでも私は嬉しかった。それだけでもあなたに伝わることを信じて願いたい。』