『考えない』という思考

 最近、悩むことが多くていろいろと狼狽しているのだけれども
(おかげで精神不安定?これがノイローゼというものか?)、ふと思い立ってみると
何も考えてないことが多い。問題を目の前にしてただただうろたえているだけだ。
同じようなことは昔からよくあって、白い画用紙や原稿用紙を目の前にして
何も描けなかったり書けなかったりしたものだ。逆にイメージだけが先行してしまうことも
しばしばある。ということで、「工程をデザインする」から「思考をデザインする」に
なんとなく興味が変化してきた。(「工程をデザインする」についてはボチボチと編集して
いきたいと。)
 単なる現実逃避の『考えない』ということではなくて、『考えていない』という状態が
どういう事なのかがポイントになる。本当に何の『思考』も働かないことはあるのか?とか、
頭の隅においていながらも『考えている』とはどういうことなのか?とか。
理性と本能: 『欲求』というキーワードにも関係してくるのだが、どうにも自分のやりたいことが
イマイチわからない。いままで勉強していなかったせいでひたすらに知的欲求は高まる
ばかりで(じゃー勉強しろよって感じですけど)、そういう欲求は理性か本能か?
そもそもそういう区別をすること自体ナンセンスかもしれない。理性からの欲求
と本能からの欲求とではどこまでの差があるのか?どういう思考が働いて欲求に
つながるのか?主観と客観とではデザインの結果はどう変わってくるのか?
必然と偶然: 何かを作っていたりすると偶然性の発見がある。ただあまり偶然だとは思いたくない。
『創造は発見である』(4/15)で述べた事に
関連してくる。もしかしたら『考えない』という思考が『偶然性』に関係しているのかもしれない。

数学はめんどくさい学問

今更こんなこと言える立場じゃないんですけどね。
私は高校までは数学が得意な方でした。小学校の時は苦手で嫌いな科目だったのですが、
公文式をはじめてからめきめきできるようになりました。
って、公文式の宣伝をするつもりはないんですけど、私にとっては良い学習方法だったと思います。
今までの経験から、ちょっと思ったことをつらつらと書き留めてみます。
1.『いわゆる日本の学校の数学は「めんどくささ」が重要である』
例えば、「公式はなぜ覚えるのか?」答えは「楽だから」です。
いちいち計算するのが面倒くさいから、公式を見つけたり、それを暗記するわけです。
私はほとんど独学みたいなものでしたから、自分なりの公式や法則などを幾つか発見しています。
ある意味、裏技として捉えられてしまいますが、そんなこと言ったら、高校で習う公式など
ほとんど裏技に近いでせう。
2.『数学のテストの数字はやった問題の量に比例する』
勉強しなければテストの点数なんてなかなかあがりません。
日本の教育ではテストの形式は限界に達しつつあつので、
ある程度のパターンを発見してしまえば、あとは計算を丁寧にやれば正解するでせう。
また、「勘で正解してしまった」ということがよくありますが、はっきりとは言えないものの、
問題の消化の蓄積によるものだと思われます。無意識のうちに数字が生成されるという事がよくあります。
私の頭が最高潮の時は、ちょっと重い乗除の計算は勝手に手が動いた時もありました。
ここで私が危惧することは『感覚の麻痺』です。便利なモノはいつのまにか当たり前になるし、
公式に当てはめれば解けると思ってしまうのはあまり好ましくありません。数学以外にも言えることで、
根本的な「めんどくささ」を分かった上で、公式を使わなければならないのだと思います。
数学の授業で、一応、公式の証明をしますがあまり重要視されません。
数年前の東大の入試問題にある公式の証明問題(三角関数の加法定理の証明)が出題されました。
根本的な論理の展開が要求されました。(三角関数の定義(sinθってなんぞや?)から証明を始めなければならなかった)
つまるところ・・・いつか足下すくわれますよって事です。

散歩のススメ

 最近のことであるけれども、散歩することが多くなった。散歩と言っても近所の道を歩くのではなくて、散策みたいな、私は”開拓”というけれども、お店とかカフェとか何か面白いモノを探したりする。
 なにげに気取っているわけで、それほど有益ではないし疲れるし、自己満足でも少し遠い距離を歩くと何かいい気分になる。やっぱり気取っている。デジカメ片手にぶらぶら街道を探索して、ときどき路地裏にいって猫を追いかけたり、オフィス街だったらふらふらとビルの中に入ったり、とりあえず疲れたらテキトーなカフェに入り浸って、服屋とか雑貨屋では見てるだけの冷やかしの客になったりする。
 とまぁ、こんな気まぐれな散歩をしてはいかがかなという提案である。私は散歩する以前と比べて、いろんな意味で少し丈夫になった気がする。まぁ、1日中歩くのだから軽く数十キロは歩くわけで、健康的にいいかもしれない(でも、あんまりやせないなぁ)。ストレスは相変わらずあるけど、すぐに落ち着けるようになったというか、静観できるようになったし、以前みたく発狂することも少なくなった。歳をとったせいかもしれない。ただ目の前にある自分の正直な気持ちと現実問題からの逃避という感も否めないが、私としては今の人生を必死に満足しようとしているつもりでいる。
むむ、結局、愚痴になってしまった。。。ということで、たまには無計画な散歩もいいのではないかなっという事である。

コンピュータ・ウィルス

※残暑お見舞い申し上げます。約1ヶ月ぶりの更新。何か目新しく変わってるわけでもないんですけど、ボチボチやっていこうと。
 夏休みの前半は2週間ばかり田舎に帰省してきました。すっかり、ぼーっとしてしまって、今でも何か腑抜けてます。何も創らないならバイトでもすりゃぁいいのにねぇ
 さてさて、兄たちと世間話をしているときに、ちょっとコンピュータ・ウィルスが話題になりました。私は言語学が苦手らしく、プログラミングなんてさっぱりだし、そういうコンピュータの事情にはあまり詳しくはないです。でも、これだけは分かります。コンピュータ・ウィルスは自然に発生しないということ。あくまで人為的だし、人災なわけで、インターネットをやる人はワクチンソフトを入れるのはほぼ必須になってきています。で、私も被害を受けたことがあるのでワクチンソフトを使用していますが、だいたい1週間に1回はアップデートがやってきます。『新種のウィルス見つかったからワクチンのデータとってきてね』って感じです。「よくもまぁ、ウィルス作るよなぁ・・・。アレ?」ここである仮説を立てます。
 現在もし新たなウィルスが誕生しなくなったとしたら。おそらく困るのはウィルスソフトを作っている会社でせう。「もしや、自分たちでウィルスを作っているのでは?」そんなダークな事情を思いついてしまいました。あくまで素人の考えですから、きっとそんな事はないでしょう。
 メディアの進化を考えるときにハードとソフトではたいていハードの方が先行するのですが、現在はソフトがハードに追いついた状況だと思います。ソフト自体がハードに高性能を要求しなくなったからです。が、それでは市場は回らないので、ソフトはだんだんと重くなっていく一方です。しかしながら、ソフトのツールとしての進化は見あたりません。ましてや、上記で述べたような事が本当だとしたら、彼らは死の商人で我々はいいように搾取されていることになります。
 「とはいえ、実害があるのは事実だしなぁ。そんな事に憤っても仕方ない」と、諦めの結論に達したところで終わりです。

W杯総評

 ブラジルの優勝で幕を閉じた日韓共催W杯ですが、新しい試みが多かっただけに成功と言える
所もあれば、失敗だったかなと思う所もままあります。
◆日本戦
 正直、決勝トーナメントまで行けるなんて思ってなかった。
ベルギー戦はちょっと悔しかった。あの数分間のリードは至福の時だった。
ロシア戦はハラハラしっぱなし。ああいう試合は心臓に悪い・・・。
チュニジア戦はハッキリ言って、ちょっと退屈だったかもしれない。
別に批判するワケじゃないけど、タダ単に自分が疲れてたせいもあるかもしれないけどさ。
トルコ戦は後半しか見れなかった。う~ん、監督の力量の差が出たかなぁ。
◆韓国の躍進
 まぁ、とりあえず、4位おめでとう。審判の問題とか、怪しいところもあったけどさ。
でも、まぁ、実力もあったって事でしょ。頑張ったね。正直あんまり嬉しくないんだけど・・・
◆面白かった試合
 全試合見たわけではないので、何とも言えないけど、一番おもしろかった試合はズバリ
決勝戦!;だ。あと、ブラジルvsイングランド。イングランドvsアルゼンチン。何かさ、
全然、違うのよ。ノーガードの撃ち合いみたいな感じで、アタリも全然強いし、早いし、
日本は此処にいていいのか?って感じした。優勝なんて当分無理だろ。
と、諦めざる終えないほど、凄い試合を見せつけられた。やっぱり、W杯は凄い。
◆チケット問題
 いい加減にしてくれっ。
オリンピックとかこういうプレミアムな大会ではいつもつきまとってくる。
協会と運営側は子供みたいなケンカしてるし。見てて情けない・・・