3月11日 地震のこと

そろそろ1カ月が経ちます。
「落ち着いたら」と何かにつけて言うことが多くなってきました。
だんだんと余震もおさまりつつあり、だんだんと記憶が抜け落ちそうな感じがします。
おそらく忘れないうちに、今のうちに書いておいた方が、後々自分のためになるような予感がするので、書いておこうと思います。
3月11日14時30分過ぎ。
月に一度のお得様とのミーティングを終えて帰社したところでした。
エレベーターに乗ったところ、やや揺れていました。時々揺れたり段差ができたりするエレベーターだったので「またか」と思いつつ21階まで上がり、自席に戻り鞄を置いたり上着を脱ごうとしたところ、ぐらっと来ました。


大きい揺れが「どどど」と来たあと、長い間隔でゆらゆらと揺れました。
窓の外を見ると隣のビルの上にあるアンテナ塔がしなっていたり、柱はみしみしと音を立てたり、移動式のキャビネットがガタンガタン音をたてて行ったり来たり。荒波にもまれる船上のように長い長い揺れが、おそらく数分間続きました。
ビルの免震構造のせいなのでしょうが、自分はその揺れで酔ってしまいしばらく床にしゃがみこんでいました。
たぶんエレベーターに乗る前に感じた揺れは初期微動だとすると、そこそこ震源は遠いはず。東海沖か、数日前に地震があった宮城か。東京でこの揺れだと考えるとただ事じゃないなと。
職場では誰かがテレビのスイッチを入れていました。やはりこういう時はチャンネルはNHK。番組はニュースに切り替わっており、緊急地震速報が出ているようでした。テレビ速報で震度が公表されると同時に共同通信の速報が流れました。
宮城で震度7
おそらくそれをうけてTwitterでは14時57分に「ちょっとただごとじゃない」とつぶやいています。
ここから周りは慌ただしくなります。
まず家族に連絡を取ろうと思いますが、こういう時は電話はまず無理だろうしやめた方が良いと判断して、とりあえずメールや災害用伝言板に無事であることを書いておきました。妻とは結局Twitterでコミュニケーションがとれ、夫婦の会話がダダ漏れながらも、お互いの無事とこれからの動きを確認しました。同僚の方々の家族も無事が確認され、とりあえず少しほっとしました。
仕事の方は、若干の緊急体制となり(電話・FAX回線等がパンクしたため)、優先度の高いタスクについては当座の処理をした後、月曜以降の処理の体制を確認しました。平たく言うと、若手で比較的職場に近い自分が必ず?出勤するといったもの。
夕方くらいになると、津波の映像が流れ始め、ちょっとでも気を緩めると泣いてしまいそうな精神状態になっていました。その頃には会社のエレベーターも一部復旧し、会社の人たちは明るいうちに帰れる人はさっさと帰り始めていました。もしかしたら会社に泊まるかなぁと思いつつ仕事を続けようとしましたが、途中でもうギブアップし、ただただ地震と津波の続報を眺めるだけになりました。
20時過ぎになると、気仙沼の火災の映像が流れてきました。もう言葉を失いました。精神的にしんどくなってきたので歩いてでも帰ろうかと何度も思いましたが、そう思う度に余震が起こり断念しました。
仕事柄というか職場的にニュースがガンガン流れてくるところなので、気分転換に食堂に行ったりコンビニにいったりしましたが、すでに食糧系は買い占められていました。かろうじて食堂は限定メニューながらもやっており、お腹は満たすことができました。
そろそろ日付も変わろうかという頃、東京メトロをはじめとして地下鉄が復旧し始めたとのニュースがあり、「乗れるものなら乗って帰ろう」会社を後にしました。が、駅に着くととても尋常じゃないほどの混み具合で、時間だけを考えると「歩いて帰った方が早いかもしれない」と思いたち、結局、家まで歩くことにしました。
ひたすら東へ。歩いている人が沢山いたのでまるで夜のピクニックのようでした。報道では無理して帰るな的なことは言われていましたが、そこまで治安が乱れているとも思えませんでしたし、途中で見かける飲み屋などでは普通に騒いでいる人たちもいて、一部ではいつもと変わらない週末のようでもありました。
2時間半ほど歩いてようやく自宅に到着しました。
妻の妹と、妻の友人が職場から比較的近かったということもあり合流していました。なんとなく、こういう状況の時はなるべく独りでいな方が良いだろうと思い、友人などにもできるだけ誰かと合流するように促しました。
とりあえず防災セットなどをいつでも持ち出せるように用意して、さっさと休もうとも思いましたが、妙な興奮状態でもあり、なかなか眠くなりませんでした。ニュースはあまり見たくありませんでしたが、比較的大きな余震が続いており、緊急地震速報はテレビの方が分かりやすいので仕方なくつけていました。余震は東北沖だけではなく、長野の方でも比較的大きい連動したと思われる地震があり、朝方ではありましたが親は起きており連絡をとることができました。そんな感じでなかなか落ち着くことができませんでした。
このころには福島の原発について不穏なニュースが飛び込むようになってきました。原発についてはいろいろ思うことはあるのですが、もし最悪のリスクシナリオをたどっているとなると1週間や1カ月でどうにかなるものではないので、いろんな意味でこれは長期戦なるなぁと覚悟を決めたというか腹をくくるしかないなと思いました。
日が昇るころには眠気に抗うことができず、思ったより疲労はたまっており、何かあった時のために普段着のままベッドに倒れこみました。たぶん夢は見なかったと思います。