映画「猟奇的な彼女」

 [スタイリッシュなラブコメ]のイメージで見に行きました。その名も彼女が猟奇的らしい韓国映画。このネーミングにしたのがそもそもの引きつける要因でしたね。直訳だとどうなってたか知らないけれど。CMやポスターの画からしてそういう印象を受けたわけで、ちょっと期待していったら。あらっ、普通のラブコメじゃん。画はきれいだし、技術もしっかりしてるし、ストーリーも面白いし。主人公の二人も魅力的だし。韓国も日本もあまり変わりないのだなぁとつくづく思ったりしました。徴兵制という現代日本にはない文化があって、少しばかりうらやましかったりしたんですけど、ほとんど無国籍で街並みも日本とそれほどかわりなく、すんなり見れましたね。最後はちょっと感動的で、時期が時期だけに「運命ってあるなら信じてみたいもんだ」と思ったり。
 さてさて、この映画のリメイクをハリウッドでやるって、それはちょっと無理だろ。欧米人が演じるとなんとなく合わないきがする。たぶん香港でやっても合わない。リメイクできるとしたら日本か中国だと思う。リングはとても成功したとは言えないし(日本では)、欧米向けにリテイストされたストーリーになると思うので、それならばオリジナルを見た方が良いと思うのです。
 例えば、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」を日本人がなんちゃって西洋人の格好をしても、そもそも合うはずもなく、似たようなシノプシスの、時代物のお家騒動の渦中に両家の彦と姫の悲恋モノの方がずっと合うわけで、逆にそれは西洋では合うはずもない。
 さてさてさてさて、結構こういう彼女がタイプだったりします。決して殴られたいわけではなくて。。。典型的優柔不断男VSストレートガールがラブコメの鉄則。何あこがれてんだオレわ。

「猟奇的彼女」公式HP[http://www.ryoukiteki.com/]

私の映画論Ⅱ

□シネマトグラフィー
 シネマトグラフィーとは何ぞや?いわゆる映像における文法である。そんなものを意識しながら映画を見るなんてどうかしてると思われるかもしれないが、私の映画鑑賞はたいてい右脳で感動し左脳で冷徹に分析していることが多い(おそらくは)。技巧に走った頃は映画の1カット1カットを分析していたし、好きだった映画は映像のつながりから台詞まで全部を記憶したものだった。
※技巧的な話や歴史なんかは文献を読んでいただければ分かることなので、私なりのシネマトグラフィーを解釈してみたいと思う。
 メディアにはフォーマットが存在する。言語にしろ本にしろ、また映像にしろ然り。ある程度、そのフォーマットに従わなければ人に伝えることができない。映画という言語のフォーマットを考えるとき、つまりシネマトグラフィーを意識することで、本来その映画が伝えたいことをより確実に受け取ることができる。かえって意識すると感動しにくいのではないかと危惧されがちだが、それは感受性の問題で、まずは正確に制作者の意図をくみ取らなければ感動もなにもないだろう。シネマトグラフィーを意識するとはいえ、良い映画は無駄なカットも技巧も演出もなく、何事もなく見終える事ができる。下手な映画は指摘したくなり、映画どころではなくなってしまう。
 視聴者がシネマトグラフィーを知らなければならいというものでもない。制作側は必須だといえる。映像という一方的なメディアは制作側が視聴者に対して最大限の考慮をしなければならない。内輪ネタでおわったり、「表現はかっこいいんだけどね」独りよがりで終わっても困る。
 去年あたり、映画がすごくつまらなく感じたときがあった。先のストーリー展開は予想範疇の中だし、「これはナニナニの技術だー」「誰々がプロデュースしてるー」なんて言っていた。口では感動と分析を両立していると言っていながら、実際はあまりそうでもなかったのかもしれない。とは言いながらも、去年の秋くらいから、「でも、やっぱり映画が好きだな」と思い始めてきた。シネマトグラフィーを意識して見なくなったというわけでは無いが、ストーリーの先が読めたとしても素直に感動できるようになってきた。『努めて鈍感に』意外とこれが今年の目標かもしれない。

MUSIC VIDEO:A Vehicle for New Sensitivity

 先日、東京都写真美術館で行われている『MUSIC VIDEO:A Vechicle for New Sensitivity』に行って参りました。2月20日までなのでまだの人はお早めに。もともとMVは好きな方だったので少しは見たことがあったのですが、これはこれでかなりの衝撃で、技術と質の高さはそこらの映画やテレビを勝るものだと確信しています。前々から、単なるプロモーションとしてのロールを超えた表現として注目されてきたMVですが、特に今世紀になってからは、すでにデジタル技術の実験場ではなく、まさに「映像」と「音楽」の融合が決定的になってきました。
MVの種類 
MVには大きく分けて2種類あります。『LIVE型』『STORY型』です。今まではほとんどがLIVE型でその表現方法にしのぎを削ってきたのですが、次第に映像に『STORY』が含まれてきます。歌詞のイメージや、まったく違うがトーンは損なわないものなど。現在では『LIVE型』『STORY型』も融合し更に新しい表現を追求している時代です。ショートフィルムみたいな試みもいくつがあります。既にただ音にタイミングを合わせて映像を当てる時代はとっくに過ぎ去りました。
これからのMV
 『A Vehicle for New Sensitivity』を日本語にすると『新しい感受性をのせて』となります。別にMVに限ったことではなく『表現』と包括的な意味合いからして、多くの人が『感受性』の重要性を感じ取っているのではないでしょうか。いわゆる「私はクラシックが好きだから~」とか「~こそロックだ」とか、もはやカテゴリに分けることは不可能になりつつあります。価値観の多様性が原因だとしても、イイものは限りなくイイのです。主義や形式を度返しして、個々の感受性がそれに反応するかが問題になります。様々な感受性が誕生し、吸収され、更に新しい表現につながり、これからもそうなるでせう。
Director:Michel Gondry

[The Chemical Brothers/STAR GUITAR]
[The Chemical Brothers/LET FOREVER BE]
[Daft Punk/AROUND THE WORLD]
etc…

 とにかく熱くて格好良すぎます。どうして海外のMVはここまで熱くなるのか不思議です。生理的に気持ちよすぎるのです。
その他、注目の楽曲etc…

[CORNELIUS/DROP DO IT AGAIN]
[砂原良徳/LOVEBEAT]
[石野卓球/Polynasia]
[TAKKYU ISHINO featuring TABITO NANAO/ラストシーン]
[電気グルーヴ/Nothing Gonna Change]
[FANTASTIC PLASTICMACHINE/BEAUTIFUL DAYS]
[Mr.Children/君が好き]
[SUPERCAR/YUMEGIWA LAST BOY]
[Beck/The New Pollution]
[The Rolling Stones/LOVE IS STRONG]
[AIR/Hoe Does It Make You Feel]
[Kraftwerk/MUSIQUE NON STOP]
あと中野裕之さんがディレクターをした洋楽があったのですが忘れてしまいました。

上の展示以外で個人的に気に入ってるMVetc…

[Bonnie Pink/Tonight the Night]
[電気グルーヴ/Shangri-La]
[電気グルーヴ/Stereo Night]
[宇多田ヒカル/traveling]
[宇多田ヒカル/Can You Keep A Secret]
[宇多田ヒカル/SAKURAドロップス]
[宇多田ヒカル/FINAL DISTANCE]
[FANTASTIC PLASTIC MACHINE/CTIY LIGHTS]
[椎名林檎/真夜中は純潔]
[椎名林檎/茎(STEM)]
[中谷美紀 with 坂本龍一/砂の果実]
[SUPERCAR/LUCKY]

とりあえず、思い出したものから羅列したのでまだまだあると思います。

アイデンティティの話

※倫理をちゃんと勉強しておくんだった。と今更ながら後悔。
 学術的に誰が研究してとか、そんな事は調べれば分かることで、かといって自分をサンプルにして考察して普遍性を拡張することはナンセンス。けれども、結果自分の振る舞いに大きく影響するのだから、何時かは自分のルーツについて考えなければならないのかもしれない。と、考えてみると、時々そういうことは思いを巡らすことが多く、果てしない思考なので止めてしまう。そんなに暇じゃない。でも、今みたいにテストか終わったり、何もすることが無くなると、昔の思考をぶり返す。
 アイデンティティってなんぞやって事になるといろいろ論争が起こりそうだけれども、簡単に言えばIDと呼ばれるもの。そんな感じと思っていた方がいいと思う。例えば私は一応まだ長野県民であるし、ある大学の学生であるし、ある研究会に所属してもいる。住んでいるのは神奈川県で、少し大きくなると日本の国籍しか持っていない。(周りにはまだ2カ国の国籍を所有している人もいるわけで)。そうやって細かく微分していくと、自分というものは限りなく外部の情報から形成されてしまっているのではないかと思ってしまう。アメリカの映画ですっかりコンピュータ社会に依存してしまった女性が個人情報を書き換えられてまったくの別人に仕立て上げられてしまうというのがあった。(つまり、社会との接点がヴァーチャルネットワークしかなかった)リアルネットワークも大切にしようという警鐘だった。自分と関連のある情報をすべて削除してしまったら、自分は確かに生きているのに社会から認知されない。死んだも同然だ。(「lain」というアニメがそれをモチーフにしている)
 外部とのリンク以外にアイデンティティが依存できるとしたら、あとは自分の記憶しかない。事実、昔日の体験や思考の記憶に依存して振る舞うことが多い。例えば私はあることがキッカケでピアノを弾き始めましたとか。実際に起こったことなんだけれども、私は最近、記憶のバグを発見してあるアイデンティティの後ろ盾を見失ったことがあった。いわゆる勘違いである。そこで思いついたのが『アイデンティティは過去の事実に依存するのではなく、むしろ今現在の過去の記憶に依存する』という事だ。確率過程で言うマルコフ性に近いものがある。未来は現在の状態のみに依存するってこと。これについては自分で思いついた割に納得がいった。

私の映画論Ⅰ

[葛藤は面白い?]
 そのまんまです。葛藤がなければシナリオなんて成り立たない。葛藤もなく平和な日常など誰も観たいとも思わない。他人の不幸に興味があったり、なにも映画に限ったことではなく、エンターテイメントと呼ばれるコンテンツにはこの要素は必須だろう。映画のコンテンツにはいろいろなパターンがあるけれども、包括的に(強引に)『葛藤』という言葉に集約できる。私はアンチハリウッド・アンチディズニーな人だが、それを含めて売れる映画・面白い映画と呼ばれる代物には絶対と言っていいほど『葛藤』が入っている。観客はそのなんとなく『葛藤』に共感する。人生は選択の連続でさまざまな『葛藤』を経験しているからだ。
[アクションの葛藤]
 いわゆる善と悪とか。一番単純。展開がわかりやすいから安心できるけど、あんまり好きじゃない。あと、こういうのものバックストーリーには主人公の精神的葛藤が多い。少年から青年へ、みたいな展開になる。
[パニックの葛藤]
 そもそもパニックってことで葛藤の原因になるけれども。たいてい制限がつきまとう。「あと何日で・・・」とか、舞台が電車の中だけとか。なぜかハリウッドはそこでラブロマンスを絡ましてくるから、あんまり好きじゃない。
[コメディの葛藤]
 これは明確。登場人物で大人は子供みたく振る舞い、子供は大人みたく振る舞う。あくまで振る舞う。ちょっとズレているわけで観客から「そうぢゃないだろ」ってツッコミが入れば成功。
[SFの葛藤]
 非日常的な世界観に日常的な振る舞いを持ち込む。「宇宙人も居酒屋にいくんだぁ~」みたいな。トーンの制御とも言うけれも、さじ加減が難しいところ。
[戦争の葛藤]
 戦争は2つの衝突から起こるのだから、葛藤そのものと言っていいくらい。ハリウッドは結局、自己犠牲とか兵士同士の友情にとどまらせてしまうので嫌い。そもそも米国万歳な映画なので問題外。そうぢゃないんだってば。敵味方なんて関係なく、双方からの視点を描写することが必要。特に戦争モノは視点が偏りがちになるので、一歩ひいて中間から客観的にみてみろって事です。
 ということで、『葛藤』を意識して映画を観ていると、客観的に理解しやすくなるのではないだろうか。いまいちその『葛藤』に共感できないとすれば、それは経験していない『葛藤』で、それを理解した上で素直に感動してあげることができれば、『葛藤の疑似体験』をしたことになる。『映画から道徳・社会を学べる』と言うアナリストもいたくらいで、たしかに納得。昔はそういう役割は本が担っていたんでしょうけど。今はゲームですかね。
 何かを表現するにも『葛藤』を意識すると、適当でもそれなりのモノが作ることができたりする。昨年の春に作ったCGムービーでも、シナリオは『SFの葛藤』を意識して制作した。それなりに面白かったし、とてつもないキレはないけれど、安定したクオリティを保持できた。
 「だからどうした」って言われるとそれまでなんだが、そんなルールを見つけるのも表現をする上での一つの手かなということ。