私とストーリー

 私はよほど本が嫌いらしい。人の文章はまず読まないし、よほど構えないと読まないし、読んでも一回では理解できない。そのくせ、文章を書くことは好きで、しかしながら、書いても口述式が多い。まどろっこしい文章は苦手で、書いても誰かの真似である。だから語彙力がない。
 それでも小学生くらいまでは何かしら読んでいたようだ。嫌いになったのは周りに本を読む人がたくさんいたからだと思う。母親や兄は恐ろしいほど本を読む。負けず嫌いな上に臆病な私の事だから、そのフィールドから逃げ出したようなものだ。加えて、自分の頭の中にストーリーが巡り始めたこともあると思う。教科書に載っている童話の続きを書いたり、そんな事から始まった。
 私の書く話は恋愛モノが多いように見えるけれども、実はそうでもない。最初は童話を書いていたし、次は映画を意識したsfっぽいもの。恋愛モノは高校になってからだ。しかしながら、私にとって重要なのはストーリーそのものであって、表現方法はそれぞれバラバラである。最初は文章を書くことしかできなかったけれども、画を描き、映像を撮れるようになってきた。小説とか脚本とか特に区別はしていない。ただ、文章力がないので(言葉を使った表現能力がないので)、私の書くストーリーはいつも脚本っぽい。
 発見したストーリーは映像で最初から最後までものすごいスピードで完結してしまう。一つ一つ思い出しながら文章にしていっても、なかなか完璧に再現できない。次に思い出したときには別の展開になってたりして、どうにも、ずくがないと表現することは難しいようである。でも、そのストーリーは確実にそこにあって、もどかしくたまらなく、フラストレーションの一つの原因となっている。
※今、一つのストーリーを書きたくなっている。この話は小学校の時に思いついたもので、何年もねかせては掘り起こして構想を練っている。今度もまた未完成でお蔵入りになってしまうかもしれない。

映画「アメリ」

今更って感じですが。率直に、これは哀しくなる映画・寂しくなる映画。世界観だけを楽しめば面白いんだろうけど。結構、本質は深いところにあるような気がする。ところで、林原めぐみはよかったんだけれども、やっぱり、字幕版を見たかった。基本的にアンチ吹き替えなので。その理由は、トーンを損なうおそれがあるから。白人が日本語喋ったり、ロシア人が英語喋ったりすると興ざめしてしまう。
 周りの評判が高すぎたせいか、もともとそんなに期待しちゃいけなかったのに、期待してしまったせいか、やや不満だった。何が不満なのかイマイチ分からない。一番最初に思ったのは『ちょっと幸せ。ちょっとため息。でも涙してしまう』だった。最近の精神状態が良くないのか、どんな事でもかなり凹んでしまっていて、楽しいだろう映画を見たところで何か退屈な気がしてしまう。怠惰への侮蔑とか、平和な日常への悲観とか。
 と思うと同時に、アメリに共感してしまっている。似ているのか、そうなりたい願望なのか。『こんな退屈な世の中だけれども』そんな感じである。世界観はとても好きだし、アメリもカワイイし、ストーリーもまぁまぁだし、編集もそこそこだし。しかし、これといって、いわゆるヒットの素質はあるとは思えない。なぜ、こんなにみんなが騒いでしまったのだろうと疑問に思ってしまった。こういう映画はひっそりと見続けられるべきモノで、大衆向けの映画では無いと思う。今、巷を騒がせている「セレブ」とかわけのわからんものに通じているのかもしれないが、そんな流れに勝手に巻き込まれてしまったようなもったいない映画だ
『アメリ』公式ホームページ→http://www.amelie-movie.com

映画「tokyo.sora」

 衝撃的だった。友人がレンタルしたビデオなのに結、私ひとりで見てしまったのだけれども、『blue』というマージンのおかげでちゃんと映画を観ることができた。少し前の自分ならとても観ていられなかったかもしれない。さまざまな人の人生がいわゆる『東京の空の下』で淡々と語られてゆく。モンタージュがやや複雑だったけれども、最後まで観れば仕組みはよく分かったし、メッセージも私なりに受け取ったつもりだ。ただ、それ以上に映画に流れる『時間』の速度が衝撃的だった。
 『blue』はとても時間がゆっくり流れる映画だと思ったけれども、この映画はそれ以上に、『現実ってこんなもんだよね』っと鋭くもじわじわと何か突きつけられた気がした。淡々と何事もなかったように過ぎゆく日常が、とても寂しくて哀しくて、最後には不覚にも泣きそうになってしまった。(といいつつ、泣かなかったけど…ここ数年、泣きたいけど泣けないことが多い)正直、最初は綺麗だけど退屈な映像に憤慨しそうだったが、いつの間にか呑み込まれてしまっていた。
 きっと何かの受け売りなのだろうけれども、母親に言われたことを思い出した。『人の人生の脇役になるな。人生の主役は自分なのだから』この映画を見終わって帰り道「たぶん生きていける。きっと生きていける」とかいろいろ想いを巡らしていた。
『tokyo.sora』公式ホームページ→http://www.tokyo-sora.jp/

映画「blue」

※weblogに乗り換えようとしてるんだけど、いろいろあって。きりのいいところで乗り換えます。
 いつだったか、渋谷へてくてくと。見に行きました。確か高校くらいの時に原作の漫画を読んだことは覚えているのだが、読んだことしか覚えて無くて、ストーリーはあんまり覚えてなかった。とりあえず、危うい偏愛の世界。結構、好き。
 個人的に主演の二人が好きな女優さんだったので(市川実日子と小西真奈美)、もともと個性の強い二人なものだから、ちょっとそれを無しにキャラクターを見つめることができなかったかもしれない。失礼ながら『いまさら女子高生はちょっと無理じゃない』ってどこかで思ってたり。そんな主演たちの脇で、仲村綾乃・高岡蒼佑あたり(村上淳はちょこっとした出てこなかったけど…)の俳優さんたちがすごくよく見えました。違和感がないのですよ。
 技術的というか演出方法とかの観点から見ますと、意外と現実はゆっくりなのかもしれないと思わされた。時間軸がね。カットが他の映画より少し長い気がしてしまう。個人的に映像を作るときにカットは短くしてしまうのだけれども、長いカットに慣れてくると、これが彼ら(登場人物)の時間の速さなのだと納得してくる。大量の映像情報を垂れ流しする映画が巷で溢れる中で、時にはこういう『ゆっくり』とした映画をたまに見るのも良いのかもしれない。
 『blue』で一番気に入ったのは映画よりもwebだったりする。インターフェースがなんとも言えないトーンをかもし出していて、かなり良い。かなり感動。
『blue』公式ホームページ→http://www.blue-movie.jp/

RAHMENS第13回公演“CLASSIC”

 お笑い好きの友人に誘われてラーメンズの公演を見に行きました。高校時代に別の友人がはまっていたので、名前は知ってましたが、まともにビデオやDVDを見たのは最近の事。そして、お笑いのLIVEは初めての経験。率直な感想はまさに芸術。いわゆるキテルわけです。いわゆるお笑いと言われる漫才やコントとは違うモノを感じました。どちらかとういと演劇と同じ感覚がしました。演出を担当している小林さんはデザイン業界でも有名ですし、なんとなく世界観やトーンの低さは共感できました。
パンフの表紙。片桐さんのどあっぷ写真だった。
 私が思うにかちかちに演出された映画やドラマも面白いですけど、LIVEとなるとアドリブが最大の魅力になっているのだと思います。大学のサークルでラジオ番組を制作したことがあるのですが、確かに何回も収録していると完璧に演出された番組ができますが、LIVEとなると(素人なので失敗もありますが)緊張感が何とも言えないほどたまりません。いわゆる筋書きのないドラマが展開されてく感じです。
 今回のラーメンズのLIVEでも友人曰くアドリブ満載だったそうで、ちょっとしたハプニングもちゃんとしたネタにしてしまうあたり、さすがプロ。あまりメディアではお目にかかれない彼らなので、貴重な体験だったなと思います。