朝ドラ「おかえりモネ」

「半分、青い」「なつぞら」辺り以来の完走でした。期待通り。そして、美しいドラマしでした。ストーリーもキャストも音楽も完璧だったんじゃないかと。

まずは音楽。BUMP OF CHICKENと高木正勝は極上。まず聞き飽きない。要所要所でかかる曲は坂本美雨がボーカルだったりというところもポイント。

キャストはあさが来たで、存在感があった清原果耶。朝ドラは3度目?ですが、満を辞して主人公。期待値の高い要因の1つでした。そして、他のキャストも含めて期待通りの高い演技力。表情や間、空気感というか、良いものを見た!という満足度が高かったです。

そして、ストーリー。これまでありがちだった少年少女が活発に成長していくもの、というより、最近の言い方だと、レジリエンスの話し。既に主人公たちは彼の震災で、何かしらの傷ついている状態。出会う人たちも何かしらの傷をかかえている。重苦しさはなかなかのものでしたが(朝の視聴だったら離脱していたかもしれない)、徐々に回復への道を模索していく流れは、自分にとっても、こな現代にとっても、救いになるような、ヒントになるような、金言やシーンがたくさんありました。

久々に良いドラマに出会えたなと、最後まで観てよかったなと、そう思える美しいドラマでした。

東京オリンピック2020・パラリンピック2020雑感

開催には半分以上賛成だったけれど、いろいろあって、総じて残念なイベントになってしまったなという感想になった。なんともしょっぱい。

ケチのつけ始めはどこからだろう。

1つは開催時期。64年の時も「日本の夏はないだろう」となって秋になった(いだてんで知った)。暑さ対策はどれもこれも厳しい印象だったし、挙句の果てはマラソンは北海道開催になった。東京とはなんぞや。

少し話はずれるが、NHKの大河ドラマの「いだてん」と朝ドラの「エール」は良かった。エールは総集編で履修した。示唆深いことが多く、コロナ禍から更に混迷を極めた状況では、その示唆が金言のように思えた。

まず1つは、40年の幻の東京開催を返上するところ。副島氏が「挙国一致ではなくスポーツ精神に基づくべき」「今の日本は貴方が世界に見せたい日本ですか!」と説くところ。40年の五輪は関東大震災から復興の象徴みたいな面もあった。64年も戦後の復興の色が濃かったみたいだけど、結局政治とは切り離せないものの、まーちゃんの奮闘ぶりが伺えた。

その64年のオリンピックのオープニング曲を作曲したのが古関裕而。彼を題材にした「エール」では(本当かどうかしらないけど)こんなような意味のセリフがあった。「復興を高らかに叫ぶマーチになんかしたくなかった。もっと普遍的な世界中の人々が心高鳴る音楽にしたかった。」コロナ禍前は「震災から復興した象徴」とか言っていたけど、コロナ禍以後は「コロナに打ち勝った象徴」とか言い出して、いろいろ見失った状況にぐさりと刺さる言葉だった。その古関裕而が作曲したオリンピックマーチは今回のオリンピックの閉会式で再び演奏された。なんだか少し救われた思いがした。

さて、開催時期の次はエンブレムとスタジアムである。エンブレムは盗作騒ぎに始まり、佐野氏のこれまでの作品に穿った目が向けられる。思えばこれが後のキャンセルカルチャーのくすぶりだったか。最終的に決まったエンブレムもよかったが、作品自体でいえばモーションも考えられていて悪くなかったと思う。

スタジアムの方はほうぼうからケチがつけられ白紙になった。そして今の味気ないものになった。残念ながら負の遺産になりそうだが、唯一グッジョブといえそうなのが、観客席の色をランダムに配色したことで、空席が目立つといったことが無いようにした点。これは後に功を奏する。思えば、2016年招致の時は湾岸地域にスタジアムを建設する予定だったはずである。諸々経緯を経て建て直しになった。これも政治が絡む。そういえば工期が厳しく過労死した若者もいた。コロナ禍がもっと早ければそれもなかったかもしれないと思うと痛ましい。そして、ザハ氏の遺作になったかもしれないと思うと、それはそれで残念だった。

いずれも「そもそも気に入らない」を通り越して「決めた方が不透明」だとか「お金がかかり過ぎる」とか言って、「そもそもお前らのやることが気に食わない」という空気感ができてしまったのが不幸だった。そういった空気感の醸造も含めて政治力なのかもしれない。お祭りの雰囲気にはなかなかならなかった。やはり、処々出てくる情報が少しずつ残念だし、特に暑さ対策では現実的で効果的な案が出てこず、空気感の醸造を阻害したと思う。阻害というよりはそれが真っ当な反応。

お祭りの空気はリオ五輪の閉会式のパフォーマスで、うまく整った気がする。演出はさすがだったし、期待値も高まったように思う。後のラグビーW杯の盛り上がりも影響したかもしれない。単純にスポーツは面白い。それで良かったのだ。そして、それが極東の魅惑の都市で開かれる。ただの一般人してみれば五輪は観光とセットなのだ。

そして、コロナ禍である。さっさと延期・中止をすべしと思っていたけど、現場の調整は相当難儀したんだろうと想像する。空気の読み合いについては、日本特有と言われがちだが、IOC も含めてチキンレースぷりは酷かった。酷いとうのは、結果論だけど、こういう状況の時のリーダーというのはなかなかつらい立場だなと思う。

延期の話が持ち上がったときに、朝の情報番組でオリンピアンのコメンテーターがえらく熱っぽく延期反対を訴えていた。当時理解できなかったが、いざオリンピックが開催されると分かるような気がした。全選手がオリンピックの日程に目がけて活動していく中で、たとえ1年でも大きなズレになる。都知事が同様の旨を含めて「2年延期はない」「再延期は困難」と言っていた。選手目線では確かにそうで、これもタラレバだけど、ベテランの選手がメダルは取れていたかもしれないし、そもそものメンバー選考も変わっていたかもしれない。逆もしかり。しかしながら、これは運命として受け入れるしかない。

1年延期となったが、パンデミックはなかなか終息しそうになかった。歴史に学ぶなら2〜3年かかる。半分以上賛成していた自分の中のオリンピック・パラリンピックは夢と幻になった。中止もありうる。開催したとしてもおそらく観戦たどままならない。それよりは命を守る方を優先する。おそらく、自分が生きているうちに思い描くような自国開催というのは二度と無いだろうし、もしかしたら、自国開催でなくともオリンピック・パラリンピックの開催自体が難しい状況が続くかもしれない。

2020年の年末、オリンピック開会式について、不穏なニュースが流れる。当初予定の演出チームが解散し、パラリンピック閉会式の演出予定だった小林賢太郎さんがスライドした(ジョインが発表されたのはもっと後だったが、同時期にパラリンピックの開会式・閉会式の演出チームの解散が報じられていた)。後の経緯から推察すると、おそらく、火中の栗を拾う思いだったのだろうと思う。政治的な差し込み案件が多く、前々任者の劣化版と言われたプランの下地が既にある中、また、そもそも開催自体が不透明な中、誰もやりたがらないだろうという状況だったのではないか、というのが素直な印象だ。功名心があったのでは?という指摘もあったが、賢太郎さんはもうそんな若手ではない。メインカルチャーの担い手が誰も拾わない中で、白羽の矢が立った、あるいはみかねたというのが、想像するところである。

それからの半年は、「本当に開催するの?」という気持ちと「開催したらそれはそれで楽しんじゃうんだろうな」という、やや思考停止した状態だった。

そして7月、オリンピックの開会式・閉会式の演出チームの発表がありバタバタと、一連の騒動が起きる。キャンセルカルチャーいかがなものか、といえばそれまでだけど、やや特異点としてはやはりコロナ禍という点。どうにも開催中止勢力が、あわよくば中止に追い込むため?にアラ探しをし始めた向きがあるように感じる。もしそうならそれは筋違いでむしろ卑怯な手段だ。あるいは、エンブレム騒動からの「やることなす事気に入らない」の下地があったうえで「チェックせねば」「炎上させても許される。むしろ燃やすべし」そんな狂騒状態だったようにも思う。別の言い方をするとネガティブな思惑が絡み合った状態。ポジティブな空気感で満たされていたら、20年以上前の汚点のほじくりはなかったのでは?と、どうしても思ってしまう。そして、それは逆に今回の状況下では誰もが標的にされた可能性があったわけで、元の演出チームだったとしても、例えば林檎さん辺りは相当な騒動になってたんではないかと思う。しかしながら、小山田さんにしても賢太郎さんにして、部分的に誤報・誤解があったものの、本質的な点では追及を免れるものではないので、退任や解任までの経緯は”かなり気に入らない”ものがあったが、致し方ないというのが自分の見解。それとは別にキャンセルカルチャーの動きは下劣であるし、それは不幸としか言いようがなかった。なんだかんだで、二人の作品は好きだし、それぞれのファンとして、ささやかに応援していこうと思う。

いよいよ、オリンピック開会式。なんだかんだで結局見てしまう。事前のごたごたで心穏やかに見ることができなかったので、フラットに考察していこうと思う。全体的にはコンセプトが欠如していて、流れのぶつ切り感が酷かった。演劇的な演出で目線の誘導の意図は感じられるものの、ダイナミックさに欠けた。賢太郎さんらしさは随所に感じられたが、小ネタ感が否めない。たぶんファンしか分からない。見せ場のパントマイムのコーナーは胸熱だった。手を使った演出はポツネンそのものだったし、映像は小島さんとのユニットのNAMIKIBASHIの「日本の形」を彷彿させた。でだ、コーナーとしては面白かったけど、会場に居た人の視点ではどうだったか。会場全体を使う演出という点では、難があったようにも思う。全体を統一するコンセプトがあれば違和感を拭えたのではないのかなと。

対照的に、パラリンピックの開会式は空港・飛行機のコンセプトの元、すばらしい構成・演出だった。トンチキな部分もあったが許容範囲。あと、おそらく政治的な案件が少なくコンセプトを腰折れさせる要因が少なかったのでは?とも思う。

そして少し飛んでオリンピック閉会式。これもまたコンセプトの欠如がなんとも非常に残念な結果を生んでしまったと思う。1つ1つのアートワークや演出はまったく問題ないものの、文脈が分からないので(読み取れない)ので素直に鑑賞できない、といったところ。「カオスを作ろうとした」というコメントがあったけど、それはクリエイティビティを放棄しているようにしか聞こえなかった。

そして、パラリンピック閉会式。これもまた対照的に素晴らしい演出だった。目指すところはオリンピック閉会式と近しいものを感じたけど、全然クオリティが違った。また、ここでやっとミライトワとソメイティが登場した。オリンピックの時も居たらしいが、目立つものではなかった。バッハごっこしていた写真には笑った。ミライトワだから許せる。彼らのキャラクターに関しては競技紹介のアニメーションなどなかなか良いコンテンツがあったものの、あまり展開・活用されなかった。少し残念だった。

肝心の本大会はというと、サッカーを中心にウオッチ。

  • サッカーはまたもやベスト4止まりだった。選手層の薄さを露呈したように思う。変えが効かない選手というのはデメリット。
  • スケボーはあそこまでお家芸になっているとは思わなかった。世代の影響・タイミングのせいかもしれない。
  • 全般的に遠い国の出来事のようだった。
  • 札幌で行った競歩やマラソンは結局酷暑だった。北海道の夏も暑いのだ。やはり時期が悪い。
  • パラリンピックの映像がたくさん流れたのは良かった。子どもたちに多様性を受け入れる良い機会になったと思う。

終わってみれば結局楽しんでいたのかもしれない。かえっえ純粋にスポーツを楽しむ、ということにフォーカスできていたような気もする。ただ世の中はパンデミックはまだおさまらず、歴史的にみれば開催の是非と評価は分かれたままだと思う。個人的にはやはりやや否定的だった。

1つ反省といえば、開会式や閉会式に、ショーアップの要素を期待しすぎていたのかもしれないということ。歴代の開会式・閉会式の演出楽しみだったけれど、基本に立ち返れば、オリンピックはスポーツ好きの集まるお祭りだ。別に舞台演出の競技ではない。過剰な期待はやめよう。長野五輪の時の開会式を演出した浅利慶太はこんなことを言っていた。「開会式やオリンピックというのは、開けてビックリ玉手箱的な、そういうことになるべき行事ではないと思います」当時は子どもながらに地味でつまらないなぁとか思っていたが、見方を変えれば、簡素で、短時間で、政治的な案件はうまく吸収できていたと思うし、何よりかなり前もってプログラムを早々に公表していた。総合的に見ればとても妥当な仕事をしていたのかもしれないなと思った。

もともと近代オリンピックは、スポーツ好きな貴族が始めたのお祭りごとである。基本に立ち返るとしたらそこだ。平和の象徴というのもやや蛇足かもしれない。大きくなりすぎたゆえ、今後、どの国の開催も挙国一致は避けられそうに無いと思うが、今回のような疲弊が続くと、いろんな思惑を絡めるのはむしろ敬遠させるかもしれない。今回のような事態で、組織は守ってはくれないという事がよく分かった。ゆえにアーティストたちは政治案件を嫌うだろう。また、競技によっては世界一を決める別の大会がそれぞれある。プロとアマの違いも曖昧になってきている。結果、スポーツ好きの人がスポーツ好きのための4年に1度のお祭り騒ぎ、になっても良いのではないかな。

最後に、参加したアスリートのパフォーマンスはすばらしいものだったし、関わったアーティストたちの仕事もすばらしかった。スタッフやボランティアの方々も大変な状況の中での仕事だったと思うと頭が下がる。それらは決して否定できるものではないし、むしろ称賛すべきで、歴史的にみても稀有なイベントになったと思う。しかしながら、この状況での開催には疑問であったし、べき論でいえば中止もしくは再延期すべきだったと思う。既に皆が思い描いていたオリンピック・パラリンピックは現時点では二度と来ない。実現しない。夢と幻になったのだ。

生みの苦しみとさみしい国の人(半分青いの考察)

なんだかんだで朝ドラの半分青いの鑑賞を完走できました。

賛否両論あったようですけど、個人的には気に入っていたし、飽きさせないドラマだったと思います。

印象的だったのは2つか3つ。

クリエーターとしての「生みの苦しみ」を充分に表現できていたこと。2つは震災の描き方が良くも悪くも象徴的だったこと。

 

生みの苦しみについて

いち表現者の端くれだった者としては身につまされる思いであったり、苦々しい思いが(胃液が逆流するような感じが)あったり、特に漫画家編は辛いものがありました。としても共感できるものもあったし、「0→ 1」へのモノづくりを体感したことがない人にはなかなか伝えづらいものがあるので、良い参考作品になった気がしています。(生みの苦しみを伝える一番の参考作品はハチミツとクローバーだと思ってます)

 

さみしい国の人

「さみしい国」の表現は、3月のライオンの主人公を表現するとあるセリフから来ています。(主人公の義理の姉のモノローグで、幼いころ両親をなくした主人公を「とてもさみしい国から来た子」と、不倫相手の妻の病状が芳しくない折、彼が「あの人が行かねばならない(国)」と表現した)

ドラマの終盤、震災による展開がありますが、肉親や親しい人を亡くした時の状況をうまく表現できていたのではないかなと思いました。律の父親である弥一が(妻の死後数年経っても)「悲しみと共に生きている」というセリフに主人公の鈴愛が同調するシーンが印象的で、そこにはなんとも言えない「仲間意識」があるのかなと思いました。つまり当事者でしかわからない「共通意識きっとありそう」だということです。この辺りは下手な同情はかえって逆効果になる所以です。よく親が言っていたような「大人になってみないと分からない」というセリフの裏付けのようにも感じます。一般的には大人になるにつれて親しい人の死に直面していくわけですから。

 

震災の表現について

「震災」の扱いが従来よりも「象徴的」だったと思いました。朝ドラで東日本大震災を扱うのは2作目だったと思いますが、「あまちゃん」の時の震災の表現はとても慎重で、主人公に関わる人の中で犠牲者は出ませんでした。ただ、今回は予兆があったように(ユーコが仙台に行くっていった時点で誰もが予感してたと思いますが)リアルさがあったかどうかは別にして、とても象徴的、言い方は悪いかもしれませんが、物語のなかの1つの舞台あるいは転換点として機能していたと思います。(漫画家編以後からある意味悪い予感の伏線が貼り続けられてたので、2011年にだんだんと近づいているという感覚もあったので、物語全体の3分の1くらいはずっと機能していたことになります。)

ついでに思うこととしては、いわゆる戦前・戦後といった転換点が、従来の方法では、あまり舞台として機能しづらくなっているのかなと思いました。その前だと維新前・維新後が1つの転換だったと思いますが、今となっては歴史的な正しさよりも、ドラマチックなものを表現する、いわば借景する対象になっているようにも感じます。もっと前は戦国時代までさかのぼりますが、その辺りだともうファンタジーばっかり。

戦前を体験している人は日本の全人口の半分もいないわけですから、「風化させてはならない」とは言うものの、従来の悲惨さや反省点のエッセンスがより象徴化されて「消費」されていたのからは反転して、より市井の人々の生活ぶりを丁寧に描写する作品が評価されているように思います。より歴史の1つの事象として定着しつつある心象です。もっと時間が経つとファンタジー化されてしまうかもしれませんが。。。

そして、戦争にとって代わるのが東日本大震災であって、東日本だけというわけでもないく、結構な割合の人たちの心に生々しい記憶がありますから、忘却と反比例するように、リアルを想起させるような「悲惨さ」などのエッセンスを象徴化した作品がだんだんと出てくるのではないかなと思いました。なので、半分青いはその1歩を踏み出した感があります。