映画「tokyo.sora」

 衝撃的だった。友人がレンタルしたビデオなのに結、私ひとりで見てしまったのだけれども、『blue』というマージンのおかげでちゃんと映画を観ることができた。少し前の自分ならとても観ていられなかったかもしれない。さまざまな人の人生がいわゆる『東京の空の下』で淡々と語られてゆく。モンタージュがやや複雑だったけれども、最後まで観れば仕組みはよく分かったし、メッセージも私なりに受け取ったつもりだ。ただ、それ以上に映画に流れる『時間』の速度が衝撃的だった。
 『blue』はとても時間がゆっくり流れる映画だと思ったけれども、この映画はそれ以上に、『現実ってこんなもんだよね』っと鋭くもじわじわと何か突きつけられた気がした。淡々と何事もなかったように過ぎゆく日常が、とても寂しくて哀しくて、最後には不覚にも泣きそうになってしまった。(といいつつ、泣かなかったけど…ここ数年、泣きたいけど泣けないことが多い)正直、最初は綺麗だけど退屈な映像に憤慨しそうだったが、いつの間にか呑み込まれてしまっていた。
 きっと何かの受け売りなのだろうけれども、母親に言われたことを思い出した。『人の人生の脇役になるな。人生の主役は自分なのだから』この映画を見終わって帰り道「たぶん生きていける。きっと生きていける」とかいろいろ想いを巡らしていた。
『tokyo.sora』公式ホームページ→http://www.tokyo-sora.jp/

映画「blue」

※weblogに乗り換えようとしてるんだけど、いろいろあって。きりのいいところで乗り換えます。
 いつだったか、渋谷へてくてくと。見に行きました。確か高校くらいの時に原作の漫画を読んだことは覚えているのだが、読んだことしか覚えて無くて、ストーリーはあんまり覚えてなかった。とりあえず、危うい偏愛の世界。結構、好き。
 個人的に主演の二人が好きな女優さんだったので(市川実日子と小西真奈美)、もともと個性の強い二人なものだから、ちょっとそれを無しにキャラクターを見つめることができなかったかもしれない。失礼ながら『いまさら女子高生はちょっと無理じゃない』ってどこかで思ってたり。そんな主演たちの脇で、仲村綾乃・高岡蒼佑あたり(村上淳はちょこっとした出てこなかったけど…)の俳優さんたちがすごくよく見えました。違和感がないのですよ。
 技術的というか演出方法とかの観点から見ますと、意外と現実はゆっくりなのかもしれないと思わされた。時間軸がね。カットが他の映画より少し長い気がしてしまう。個人的に映像を作るときにカットは短くしてしまうのだけれども、長いカットに慣れてくると、これが彼ら(登場人物)の時間の速さなのだと納得してくる。大量の映像情報を垂れ流しする映画が巷で溢れる中で、時にはこういう『ゆっくり』とした映画をたまに見るのも良いのかもしれない。
 『blue』で一番気に入ったのは映画よりもwebだったりする。インターフェースがなんとも言えないトーンをかもし出していて、かなり良い。かなり感動。
『blue』公式ホームページ→http://www.blue-movie.jp/

『やはり』

『やはり』という言葉
前の状態とか他のものとかと(結局は)違わないこと、予想・期待の通りであることを表す語。①前と同様。依然として。②予想にたがわす。③期待どおりに。何のかの言っても結局は。
【岩波国語辞典第4版引用】
 論文を書くときに一つの鉄則がある。『やはり』を乱用しないことだ。論文でなくても、論理的な話をする場合に『やはり』を頻繁に使用するのは避けた方が良いとされている。理由は、『やはり』を使用すると今までの論理的議論の積み重ねが一瞬のうちにして無意味になってしまう可能性があるからである。最初から予想できるのであればそれを明確に言及した上で、尚かつ、有意義な議論を積み重ねなければならない。「結局言ったとおりになったでしょ」というような結論では、まるで諦めているような、悪い印象を与えかねない。もちろん正しく使用すれば『やはり』という言葉も有効に機能することもある。しかしながら、現在ではこの言葉を使いすぎているような気がする。
 誰が使いすぎているのか?我々も『やっぱ~』と連呼することも多い。けれども一番よく耳にするのがいわゆるTVに出てくるコメンテーターや評論家・あと代議士と呼ばれる方々である。『やっぱり~ですよね』このようなコメントを連呼する。少々不快感を覚える。あなた方には予想範疇かもしれないが、素人の我々には分からないのだからもっと分かりやすく説明して欲しい。加えて、たいてい『やはり』の後には結論が述べられることが多い。しかし、『やはり』『やっぱ』『やっぱり』を乱発されると、いったいどれが本当に言いたいことなのか分からなくなってしまう。
 普通の会話で『やはり』が多用されてしまうのは仕方のないこととして、言葉を武器として生活している人にはちゃんと使用して欲しい。『やはり』『やっぱ』『やっぱりさ』ってあんたたちはだだっ子じゃないんだから、そんな陳腐な言葉を使わなくても人々を論理的に納得させてみて欲しいものだ。

私とピアノ

 最近、自分の20年あまりの時間を見直そうと、少し考えている。
 家族によると私がピアノを弾き始めたのは突然だったそうだ。いくらなんでもそんな事はあるわけもなく、たしかに理由がある。
 小学生の時、ピアノがわが家にやってきた。もうぼろぼろの古いピアノである。中学校の校舎改修に伴いピアノを引き取ったのだそうだ。CDを一枚も持っていないほど音楽に対して興味が皆無の少年は興味を示すはずもなく、しばらく放置されていた。
 中学生になり、あることをキッカケにピアノを弾き始めた。ただ単に憧れたのだ。その頃、私は勉強という道をあきらめ始めていたし、いわゆる表現することに興味を抱き始めていた時期だった。しばらくして、親にピアノ教室に通うかどうか聞かれたが、私にはそんな選択肢はまったくなく、ひたすら好きな曲を弾いていた。
 毎日のようにピアノを弾き、そして弾くだけでは満足がいかず、作曲をはじめ、音楽が好きになり、そしてCDを購入したとき、ジャケットの画に影響され画を描き始めていく。そんな巡り会いがあって、今の私があるようなもので、大げさかもしれないが、あの時、ピアノに憧れなかったら少しは私の人生も変わっていたかもしれない。
 ところが、大学生になり、ピアノを弾く機会はめっきり減った。周りにはピアノのうまい人はたくさんいるし、独学で弾くようになった人も何人もいる。絶対音感を持つ人はうらやましいと思うし、決して上手くなくても本当にピアノが好きな人がいる事も知った。一方で自分はピアノが無くても、作曲はできるし、生活はできてしまうし、たまぁにストレス発散に弾く程度である。実家に帰省しても、あの古いピアノを弾いてあげる機会も減った。
 ピアノのおかげで確実に私の人生は変わった。けれども今はピアノから遠い位置にいる気がする。もっとピアノの事を好きになってもいいかもしれない。決して上手く弾けるわけではないし、レパートリーは少ないし、絶対音感もない。高校の時に人前で発表する快感を味わったけど、その感覚はピアノでは無くても満たすことができる。これからはピアノを弾くということを純粋に陶酔したいと思う。
 ピアノを弾くとき心がけていることが2つある。
・ピアノを弾く前は必ず手を洗うこと
・鍵盤は強く叩かないこと
 一つ目は鍵盤が汚れると弾きにくいから。二つ目はうるさいから。たまぁに若さに任せて弾く人がいるけど、そういう弾き方はあまり好きじゃない。

RAHMENS第13回公演“CLASSIC”

 お笑い好きの友人に誘われてラーメンズの公演を見に行きました。高校時代に別の友人がはまっていたので、名前は知ってましたが、まともにビデオやDVDを見たのは最近の事。そして、お笑いのLIVEは初めての経験。率直な感想はまさに芸術。いわゆるキテルわけです。いわゆるお笑いと言われる漫才やコントとは違うモノを感じました。どちらかとういと演劇と同じ感覚がしました。演出を担当している小林さんはデザイン業界でも有名ですし、なんとなく世界観やトーンの低さは共感できました。
パンフの表紙。片桐さんのどあっぷ写真だった。
 私が思うにかちかちに演出された映画やドラマも面白いですけど、LIVEとなるとアドリブが最大の魅力になっているのだと思います。大学のサークルでラジオ番組を制作したことがあるのですが、確かに何回も収録していると完璧に演出された番組ができますが、LIVEとなると(素人なので失敗もありますが)緊張感が何とも言えないほどたまりません。いわゆる筋書きのないドラマが展開されてく感じです。
 今回のラーメンズのLIVEでも友人曰くアドリブ満載だったそうで、ちょっとしたハプニングもちゃんとしたネタにしてしまうあたり、さすがプロ。あまりメディアではお目にかかれない彼らなので、貴重な体験だったなと思います。