アイデンティティの話

※倫理をちゃんと勉強しておくんだった。と今更ながら後悔。
 学術的に誰が研究してとか、そんな事は調べれば分かることで、かといって自分をサンプルにして考察して普遍性を拡張することはナンセンス。けれども、結果自分の振る舞いに大きく影響するのだから、何時かは自分のルーツについて考えなければならないのかもしれない。と、考えてみると、時々そういうことは思いを巡らすことが多く、果てしない思考なので止めてしまう。そんなに暇じゃない。でも、今みたいにテストか終わったり、何もすることが無くなると、昔の思考をぶり返す。
 アイデンティティってなんぞやって事になるといろいろ論争が起こりそうだけれども、簡単に言えばIDと呼ばれるもの。そんな感じと思っていた方がいいと思う。例えば私は一応まだ長野県民であるし、ある大学の学生であるし、ある研究会に所属してもいる。住んでいるのは神奈川県で、少し大きくなると日本の国籍しか持っていない。(周りにはまだ2カ国の国籍を所有している人もいるわけで)。そうやって細かく微分していくと、自分というものは限りなく外部の情報から形成されてしまっているのではないかと思ってしまう。アメリカの映画ですっかりコンピュータ社会に依存してしまった女性が個人情報を書き換えられてまったくの別人に仕立て上げられてしまうというのがあった。(つまり、社会との接点がヴァーチャルネットワークしかなかった)リアルネットワークも大切にしようという警鐘だった。自分と関連のある情報をすべて削除してしまったら、自分は確かに生きているのに社会から認知されない。死んだも同然だ。(「lain」というアニメがそれをモチーフにしている)
 外部とのリンク以外にアイデンティティが依存できるとしたら、あとは自分の記憶しかない。事実、昔日の体験や思考の記憶に依存して振る舞うことが多い。例えば私はあることがキッカケでピアノを弾き始めましたとか。実際に起こったことなんだけれども、私は最近、記憶のバグを発見してあるアイデンティティの後ろ盾を見失ったことがあった。いわゆる勘違いである。そこで思いついたのが『アイデンティティは過去の事実に依存するのではなく、むしろ今現在の過去の記憶に依存する』という事だ。確率過程で言うマルコフ性に近いものがある。未来は現在の状態のみに依存するってこと。これについては自分で思いついた割に納得がいった。

私の映画論Ⅰ

[葛藤は面白い?]
 そのまんまです。葛藤がなければシナリオなんて成り立たない。葛藤もなく平和な日常など誰も観たいとも思わない。他人の不幸に興味があったり、なにも映画に限ったことではなく、エンターテイメントと呼ばれるコンテンツにはこの要素は必須だろう。映画のコンテンツにはいろいろなパターンがあるけれども、包括的に(強引に)『葛藤』という言葉に集約できる。私はアンチハリウッド・アンチディズニーな人だが、それを含めて売れる映画・面白い映画と呼ばれる代物には絶対と言っていいほど『葛藤』が入っている。観客はそのなんとなく『葛藤』に共感する。人生は選択の連続でさまざまな『葛藤』を経験しているからだ。
[アクションの葛藤]
 いわゆる善と悪とか。一番単純。展開がわかりやすいから安心できるけど、あんまり好きじゃない。あと、こういうのものバックストーリーには主人公の精神的葛藤が多い。少年から青年へ、みたいな展開になる。
[パニックの葛藤]
 そもそもパニックってことで葛藤の原因になるけれども。たいてい制限がつきまとう。「あと何日で・・・」とか、舞台が電車の中だけとか。なぜかハリウッドはそこでラブロマンスを絡ましてくるから、あんまり好きじゃない。
[コメディの葛藤]
 これは明確。登場人物で大人は子供みたく振る舞い、子供は大人みたく振る舞う。あくまで振る舞う。ちょっとズレているわけで観客から「そうぢゃないだろ」ってツッコミが入れば成功。
[SFの葛藤]
 非日常的な世界観に日常的な振る舞いを持ち込む。「宇宙人も居酒屋にいくんだぁ~」みたいな。トーンの制御とも言うけれも、さじ加減が難しいところ。
[戦争の葛藤]
 戦争は2つの衝突から起こるのだから、葛藤そのものと言っていいくらい。ハリウッドは結局、自己犠牲とか兵士同士の友情にとどまらせてしまうので嫌い。そもそも米国万歳な映画なので問題外。そうぢゃないんだってば。敵味方なんて関係なく、双方からの視点を描写することが必要。特に戦争モノは視点が偏りがちになるので、一歩ひいて中間から客観的にみてみろって事です。
 ということで、『葛藤』を意識して映画を観ていると、客観的に理解しやすくなるのではないだろうか。いまいちその『葛藤』に共感できないとすれば、それは経験していない『葛藤』で、それを理解した上で素直に感動してあげることができれば、『葛藤の疑似体験』をしたことになる。『映画から道徳・社会を学べる』と言うアナリストもいたくらいで、たしかに納得。昔はそういう役割は本が担っていたんでしょうけど。今はゲームですかね。
 何かを表現するにも『葛藤』を意識すると、適当でもそれなりのモノが作ることができたりする。昨年の春に作ったCGムービーでも、シナリオは『SFの葛藤』を意識して制作した。それなりに面白かったし、とてつもないキレはないけれど、安定したクオリティを保持できた。
 「だからどうした」って言われるとそれまでなんだが、そんなルールを見つけるのも表現をする上での一つの手かなということ。

『考えない』という思考

 最近、悩むことが多くていろいろと狼狽しているのだけれども
(おかげで精神不安定?これがノイローゼというものか?)、ふと思い立ってみると
何も考えてないことが多い。問題を目の前にしてただただうろたえているだけだ。
同じようなことは昔からよくあって、白い画用紙や原稿用紙を目の前にして
何も描けなかったり書けなかったりしたものだ。逆にイメージだけが先行してしまうことも
しばしばある。ということで、「工程をデザインする」から「思考をデザインする」に
なんとなく興味が変化してきた。(「工程をデザインする」についてはボチボチと編集して
いきたいと。)
 単なる現実逃避の『考えない』ということではなくて、『考えていない』という状態が
どういう事なのかがポイントになる。本当に何の『思考』も働かないことはあるのか?とか、
頭の隅においていながらも『考えている』とはどういうことなのか?とか。
理性と本能: 『欲求』というキーワードにも関係してくるのだが、どうにも自分のやりたいことが
イマイチわからない。いままで勉強していなかったせいでひたすらに知的欲求は高まる
ばかりで(じゃー勉強しろよって感じですけど)、そういう欲求は理性か本能か?
そもそもそういう区別をすること自体ナンセンスかもしれない。理性からの欲求
と本能からの欲求とではどこまでの差があるのか?どういう思考が働いて欲求に
つながるのか?主観と客観とではデザインの結果はどう変わってくるのか?
必然と偶然: 何かを作っていたりすると偶然性の発見がある。ただあまり偶然だとは思いたくない。
『創造は発見である』(4/15)で述べた事に
関連してくる。もしかしたら『考えない』という思考が『偶然性』に関係しているのかもしれない。

数学はめんどくさい学問

今更こんなこと言える立場じゃないんですけどね。
私は高校までは数学が得意な方でした。小学校の時は苦手で嫌いな科目だったのですが、
公文式をはじめてからめきめきできるようになりました。
って、公文式の宣伝をするつもりはないんですけど、私にとっては良い学習方法だったと思います。
今までの経験から、ちょっと思ったことをつらつらと書き留めてみます。
1.『いわゆる日本の学校の数学は「めんどくささ」が重要である』
例えば、「公式はなぜ覚えるのか?」答えは「楽だから」です。
いちいち計算するのが面倒くさいから、公式を見つけたり、それを暗記するわけです。
私はほとんど独学みたいなものでしたから、自分なりの公式や法則などを幾つか発見しています。
ある意味、裏技として捉えられてしまいますが、そんなこと言ったら、高校で習う公式など
ほとんど裏技に近いでせう。
2.『数学のテストの数字はやった問題の量に比例する』
勉強しなければテストの点数なんてなかなかあがりません。
日本の教育ではテストの形式は限界に達しつつあつので、
ある程度のパターンを発見してしまえば、あとは計算を丁寧にやれば正解するでせう。
また、「勘で正解してしまった」ということがよくありますが、はっきりとは言えないものの、
問題の消化の蓄積によるものだと思われます。無意識のうちに数字が生成されるという事がよくあります。
私の頭が最高潮の時は、ちょっと重い乗除の計算は勝手に手が動いた時もありました。
ここで私が危惧することは『感覚の麻痺』です。便利なモノはいつのまにか当たり前になるし、
公式に当てはめれば解けると思ってしまうのはあまり好ましくありません。数学以外にも言えることで、
根本的な「めんどくささ」を分かった上で、公式を使わなければならないのだと思います。
数学の授業で、一応、公式の証明をしますがあまり重要視されません。
数年前の東大の入試問題にある公式の証明問題(三角関数の加法定理の証明)が出題されました。
根本的な論理の展開が要求されました。(三角関数の定義(sinθってなんぞや?)から証明を始めなければならなかった)
つまるところ・・・いつか足下すくわれますよって事です。

映画「Lily Chou-Chouのすべて」

気づいたらレンタルが始まっていたので借りて見ちゃいました。
岩井俊二監督の作品には影響も受けているし、好きな作品は多いし、前々から注目していた作品の一つではあったのですが、見に行くほど熱っぽくはなく『どーせレンタルされるだろう』と思って、結局、1年ばかりの時差の後に観賞することになりました。
星野君かっこよすぎです。
そんなことは置いておいて、この作品は色々な面で賛否両論分かれる作品だなぁと思いました。個人的にはストーリーは大好きだけど、撮影方法や表現方法はちょっと不満に感じました。
『ストーリーについて』
すなわちこの映画はイタイ映画で最低サイアクなことばかり続きます。ただそれだけなら、ただのイタイだけの映画になってしまいます。淡々と彼ら(登場人物)の現実が伝えられるだけなので、観客のとらえ方で良い映画にも悪い映画にもなりうる。ワケです。そこの部分で好き嫌いが分かれるところでもあると思います。ハリウッドの様な身を任せていれば楽しませてくれるあくまで娯楽としての映画ではありません。
この映画は深い深い問題を提示しています。今、現実に起こっていることかもしれない、少なくとも彼ら(登場人物)の心の中でまどろむ感情に似たところを、私たちの世代は感じているのではないかなと思います。何がリアルで何が虚構なのか。その辺の話をし出したらキリがなにのでやめます。
『表現方法について』
撮影方法と配置演出法と編集方法を併せて表現方法と言うことにします。
ひとこと。酔った。ひどく酔った。ゆらゆらゆらゆら。岩井監督らしいところもあったけど、どんな手法をとったかも知ってるけど、決してラディカルではないなぁと思ってしまいます。あと作品全体がやや間延びしてしまっていると思います。大衆向けではないと言ってしまえばそれまでなのですが・・・
とても哀しいストーリーです。とても綺麗なストーリーです。見終わった後はかなり凹むので、落ち込んでいるときに見るのはオススメしません。が是非みてもらいたい作品ではあります。