経験の蓄積と表現

結論から言うと何事も経験する事が大切だということです。
最近の風鈴の衝動買いもその一環です。
昔、小説やら脚本を書くときに実際に経験しないと、良い表現はできないと思っていました。
具体的には人の死やら、刺激的な恋愛などを書けずに、空想の世界に飛び込んで行きました。
それでは進歩がないと、ある時、思考の転換をしました。
想像でもよいから実世界のことを書いてみようと。
経験はなかなかないものですから、見聞やらを参考に妄想が始まります。


自分がしていた妄想はかなり多重的なもので
第三者であり、その人物になりきることもあり(それはある人格を「飼う」ような感覚)
それを繰り返すことで、経験がなくとも、ある程度は表現できるようになれます。
実際に経験できないことは妄想するしかありません。
特に倫理に反するような事・物理的に不可能な事(SFはほとんどそうですけど)など。
犯罪などは物理的に不可能ではありませんが、することはできません。
けれども、ドラマ性の1つに脱倫理というものがあり、欠かせない要素の1つです。
つまり、サスペンスドラマなどは妄想のたまものと言えます。
(妄想の繰り返しのせいか、1ヶ月ほど前にみた悪夢では、
自分がしてもいない事の罪悪感で苦しめられたりしてました。馬鹿らしい)
しかしながら、表現するときの発想力、表現力に関して
経験の蓄積がある程度の影響を与えているのではないかと思います。
例えば、私は長野県出身で、昔の冬は大雪も珍しくなく雪や氷の上を自然と歩く経験をしていました。
それは雪や氷の上をいかに転ばずに歩けるかという訓練をしていることになります。
東京へきて気づいたのですが、東京で珍しく雪が降ったときに、街ゆく人たちよりも、自分の方が上手に歩けます。
このような微妙なニュアンスのアクションについて、(雪や氷の上を歩くという表現をする時)おそらく経験者でなければ表現として描写することは無いと思います。滑らないように歩くことは逆にどうしたら滑る歩きになるか分かるということですから、細かい描写ができるようになります。
実体験として、昨年の一件で、物心ついてから、
初めて人間の死をいうものに直面したわけですが
(初めて人間の死体にも触った)
数ヶ月後に、あるストーリーで人間の死を活字で表現してみました。
自分でも昔(妄想)の人間の死の表現と変わった気がしました。
(その点はストーリーを見せたある友人にも指摘された)
「経験の蓄積は表現に大きく影響する」ということは
実は中学時代くらいから気づいていたのですが、
自分の行動範囲の狭さと意気地の無さを悔しがりつつ
妄想の世界にひた走ってしまいました。
そして、高校・大学と表現・制作手法の形式化にはまってしまい
もっとその事を意識して何か製作をしていたら、
もう少し変わった作品が生まれたかもしれない。
というもの、卒業制作あたりでも近しいことはしていて
最終的な善し悪しの判断基準として、
自分の体験をよりどころにしていました。
その時よりも経験値を上げるために、
机上では論じていた風鈴について実体験が平均程度だったと思うので
風鈴を買いあさっている結果になったわけです。