名前は慣れ

新しいゲーム機の名称がいけてないとか話題になっていますが
結局、名称とか名前は慣れだと思うのです。
使い続けているうちに自然と合ってくるのです。
もっと言えば、名称や名前が持つ意味が本質的ではないということです。
音の響きの印象や文字がもつ情報の価値観は時代によって変化するものです。
なによりのポイントは無理なく使い続けられるかどうかにあります。


名前を付けたり、名称を決めるときは、願いや意味を込めることが多いです。
製品の名前を決めるのも、なんらかの背景をよりどころとします。
(ある外国の言葉では~という意味だとか)
ただ、それらの説明は後付で、聞いた第一印象の方が鍵になります。
それも研究されていて、あとは相対的なものですが
最近は濁点の多い強い印象のものから、柔和な印象のものに移りつつあります。
(名称だけではなくデザイン全般が)
そんな戦略を立てたところで、一番考慮しなければならないのが
ユーザ側のストレスだと思います。
ネガティブなアプローチですが、言いにくい言葉、
あるいや社会的にネガティブな意味の言葉は使い続けても
自然と避けるになります。
たとえそうでなくても、省略した名称を生み出す傾向にあります。
ですから、ストレスがあるかないかという点のみで決めてしまった方が潔いかもしれません。
受け入れる側もそうですけど、あまり意味づけという点を論議するのは若干不毛のようです。
けれども、子供の名前決めなどがそうですが
多少の意味づけがなければ、物寂しい気もします。
(かといって、自分の名前がどういう意味をもっているか知りませんが)