幸福論4

今までの流れは、幸福の資本は何か?とう発起から、今までの夢や将来像を改めて眺めてみて、どうやら「やり甲斐」や「甲斐性」を求めているわけでは無いらしい。
というところまできました。
飛躍すれば、幸福になるための必要十分条件は無いのかもしれません。
というのも、幸福や不幸は他人と比べて相対的に感じるというよりも
絶対的な何かがあるような気がしてきたからです。


ふと幸福感を得る瞬間、実はその興奮から逃れがたい事なのだと分かりました。
思わず、ニヤけてしまうような。そういう状態は、その後、反省することができても
その瞬間は本能というか、その感情・心情に逆らうことができません。
それは不幸も同じことで、「不幸中の幸い」などということは後々の考察によって出てくることですが、
悲しい時はとことん悲しいものです。何ごととも比べることができない。
ですから、他人の不幸話を聞かされ同情されても、さほどの効果は無いように思います。
でも、普段はプラスでもなければマイナスでもありません。
最近、よく思うのが、人生は実にバランスがとれているように思います。
仕事はちょっとイマイチだったけど、プライベートはラッキーだった。
その逆もしかり。
しかし、ミクロな視点で見れば確実に心のベクトルはどちらかに振れています。
仕事がうまくいってないから、プライベートでラッキー度が増すというわけでもないだろう。
プライベートがうまくいってないから、仕事の甲斐性が増すというわけでもないだろう。
前後の環境情報に関係なく、きっとハッピーなのです。
その「ハッピー!」というフラグが立つ琴線というものが
人それぞれにあって、それが具体的になんなのかを探して
みんな頑張って生きているように思います。
その琴線は、例えば恋愛でいえば心理学のいう「imago」に関連してくるのかもしれません。