時間軸の哲学「編集」

記憶と記録について、違いは述べましたが、どちらにも共通したことがあります。
それは、どちらも「記す」過程に「編集」が介在していることです。
情報がメディアにおさまる時に編集されます。
メディアに記録された情報が、ずべて(事実)という状態を示しているわけではありません。
目やカメラは光情報しか「しるす」ことができません。
同様に考えれば、私たちの五感はセンサーであり、脳は記録メディアとなります。
それらの情報を全てかき集めたとしても、現実に起こった事実を
記憶・記録することは難しいといえます。
それは、自分の意志のもとに編集がされるからです。


頻度と期間は違うものの、記憶と記録は編集され続けます。
いつの間にか、過去の記憶が思い違いだったということがよくあります。
実体験として、自分の人間形成に根幹的なエピソード(過去の出来事)が
実は、そうではなかったということがありました。
印刷技術が発明されるまで、紙の劣化が激しく、本のコピーは写本が基本でした。
今こそ、デジタル技術で無尽蔵にしかも半永久的に情報を残すことができますが
その情報をもとにさらに情報がうまれ(ある1つの論文が多くの参考文献を引用するように)
オリジナルの事実とは反対の解釈されてしまう情報が波及してしまうことがあります。
コピーが簡単になったのだから、余計にその規模と影響は大きいものになるでせう。
(そもそも、オリジナルの事実なんて、その当事者ですらはっきりと理解できないのですから
後々の評論家が仮説を立てたとしても、本当の事実は分かりえないものかもしれない)
いつの間にか私たちは情報を編集し続けています。(都合のいいように)
実際にこの文章に書くにあたって、様々な本やテレビから得た情報がバックにあります。
数年もすればまったくチンプンカンプンな文章かもしれません。
つまり、都合のいいようにということは、その時間軸の点(現時点)上において
「情報は最適に編集される」ということです。
それを少し早くできる人は、先見の目があると言われたりするのかもしれません。