時間軸の哲学「有限と無限」

時間は常に一方向に流れて、滞ることもなければ逆流することもない。
というのが一般常識的な意見ですが、
そもそも、なぜ時間を認知するようになったのか。
それは、「区切り」や「間」があるからです。
例えば、日本の四季の変化の仕方は緩やかだかバライティに富んでいる。
気がついたら、夏になり、秋になり、冬になっている。
一方で、古代エジプトでは年に一度、ナイル川の氾濫がある。
変化の度合いは激しいが、過酷な環境が長時間続く。


四季やシリウスが「区切り」となり、そして「間」が生まれ
「時間」を認知することになります。
時間軸はとても相対的な概念で「間」の大きさによって感じ方が変わってきます。
一方向に進むものという見方とは少し異なります。
さて、上記に環境の変化が時間軸を生むと書きましたが
その為に、土地柄によって時間軸の感じ方は様々です。
先の例をそのまま引用すると、
日本では四季を表す単語(季語)は多いけれども
年数を表す単語は少ない。(あったとしてもそれは仏教がフォローしている)
一方で、ナイル川の氾濫は1年の「間」があるので
日本よりは尺度が広い印象があります。
少し話しはズレますが、その環境の変化と時間軸とは、その土地に根付いたある宗教にも関係してきます。
日本では多神教と諸行無常の概念が根本にあります。
例えば、空家などが数年で森に還ってしまうように、自然の強さが原型にあるのかもしれません。
「自然にはかなわない」→「自然のあらゆるものが神様:ひたすら祈るだけ」
それが、諸行無常や儚さ、さらにはワビ・サビ(わびしい・さびる)という観念に繋がったのではないか。
ですから、とかく、日本人や東南アジア圏の人々は「有限」であるとか、
その後の輪廻(ループ)ということを強く意識しているような気がします。
古代エジプトや2大宗教が生まれたメソポタミアでは過酷な環境ではあるのですが
日本的な意味での自然の強さはありません。森を切り拓き、また放置すると
そこは森に戻らず砂漠になってしまいます。自然が弱いともいえます。
つまり、その地方は人間にとっても自然にとっても過酷な環境だといえます。
自然が弱く、人間が強くなったためにヒエラルキーの概念が次第に構築され
苛酷な環境に対する怒りのような感情が一神教(あるいは善と悪)の観念に繋がったのではないか。
ですから、過酷な現世から天国へいって永遠に幸福になるというモデルが出来上がったように思います。
「有限」と「無限」がどちらがよいというわけではないですが、
とかく、デジタルは「無限」がつきまとってきます。
自然と朽ちることがない。別の言い方をすれば、ハイエナやバクテリアのような掃除屋がいないのです。
情報の中で食物連鎖のような構造を構築すべきなのかどうかは分かりませんが
膨大に増えるアーカイブデータをすべて網羅するとなると莫大な計算力が必要となります。
自然淘汰(生命の進化)のように、やがて消える情報のような仕組みがあってもよい可能性はあります。