宗教の自由

この前の土曜日に散歩をしていたら、ある宗教団体の中枢部?の街に出てしまったんです。
ちょうど集会が終わったのか、家族連れの人々がぞろぞろと出てきたところで
「しまったぁ~」と思いながら道の端っこを通ってきました。
その街はその宗教関連の施設ばっかりで、少し異様な雰囲気でした。
そのまま歩いて、靖国神社に行き、無性に苛々してたので、参拝してきました。
外人さんがいっぱいいました。
別に私は神道に傾倒してるわけでもないですし、右翼というわけでもありません。
前に明治神宮を参拝したときと同じようになんとなく、拍手をうってきたわけです。
東京に居るんだから東京の名所に行こうというもっともらしい理由はありますけど
本当の理由は「なんとなく」です。


私の家には仏壇があって神棚があって、クリスマスもやって。
典型的な日本の家庭です。昔は寺と神社の区別のつきませんでした。(社会的な意味合いが)
ただなんとなく、神社にはいろいろな神様がいて、寺にはご先祖様がいるというくらいの認識です。
ある意味、日本古来のアミニズムの世界で育ったわけですが、
小学校の時に、一家である宗教に入っている友達がいました。
その子は病気がちでよく入院したりしていました。
そして、高学年頃にようやくどうやら宗教をしているらしいということが分かってきました。
その当時の担任の先生はよく配慮したもので(家庭の事情としかいいませんでしたが)
特にいじめだとか差別につながることはなかったと思います。
ただ異質だったのが、その事情の関係で、全校で校歌や国歌を斉唱するときに
彼は椅子に座り拒否せざるを得なかったのです。
運動会の鼓笛隊でも、校歌の演奏になると列を離れ、端へ座っていました。
とても違和感を覚えました。
宗教がどいう歴史があって、どういう効用があって、社会的意味合いがあってなどなど
それは中学・高校でいろいろ習いましたが、そういう理由をうんぬん加えても
どうしてもその違和感が拭い去れないです。
たとえ親友や恋人がどんな宗教をやっていても、どんな神様を信じていても良いと思っています。
それは尊重すべきことだし、それは侵害できないものだと思います。
個人感情では好きではない宗教や国でも、軽んじられることがあってはならないと思いますし
実際に腹が立ちます。
コミュニティの内部では様々な掟・ルールがあると思いますし、信念に基づいた行動が求められるでしょう。
しかしながら、そのコミュニティと外部との接点がある場合、少なからず摩擦が起こる可能性があります。
十分に回避できるものもあれば難しいものもあるでしょう。
例えばある新興宗教と周辺住民とのいざこざがあるのは内と外の接続がスムーズにいってないのだと思います。内だけの生活ならば問題はないので、出家などと称して集団で生活する要因もそこにあるのかもしれません。それでも経済活動をしていく上でどうしても外との接点がでてきます。
その点に十分に配慮しなければなりません。
上で言及したことはかなり客観的な意見です。
それは分かっているのですが、どうも解せないのです。
それは、そのコミュニティのそもそもその掟やルールや信念といったもと、それに基づいた行動が理解できないのだと思います。
結論から言えば、程度の問題なのです。
例えば、イスラム教徒の豚を食べない理由は豚が汚れた生き物だから。
ヒンドゥー教徒が牛を食べない理由は牛が神聖な生き物だから。
その経緯はどうであれ、「なるほどね」と一応の納得はできます。
その納得できる理由は、おそらく私たち(少なくとも私)が豚や牛に関して
それほど信念などに関わらない要素だと思っているからなのでしょう。
もし、豚や牛を食べなければそれは無礼であり、信念に反することであれば
私たちは激昂し、一切彼らのことを信用しなくなるかもしれません。
私が小学校時代の友達に違和感を覚えたのは
校歌や国歌はそれなりに重要なファクターではあったし
「和を乱すことは許さん」という古臭い気質を持っていたからかもしれません。
では、昨今、問題となっている首相の靖国参拝はどうなのか。
私は行くべきだと思います。
それが近隣諸国のトラウマになっていることも充分理解しています。
周りが反対しても、それが内政干渉になるとか、そういう理由ではありません。
たとえ周りを傷つけても信念を曲げるべきではないと思います。
(では、聖戦だといって人を殺していいかというのは別次元の問題です)
やや論理のすり替えのように聞こえるかもしれませんが
自分の信念を軽んじてしまえば、相手の信念さえも軽くみてしまうような気がするのです。

「宗教の自由」への2件のフィードバック

  1. うーん。
    個人的な事由って絡むと面倒ですな。
    自分の周りにはそういう子はいなかったが、
    別にわがままでもいいと思うし
    和を重んじるのだっていいと思う。
    ただ、それなりに考え方は上のレイヤーを目指す国なんだから
    筋を通す術・納得させる努力、そういったことは考えるべきなのでは?と思う。
    自己の正当化は無意味な時代なのかな、とも思う。
    そういう意味ではちょっと安部さんに納得したし、今の”経済には関与するが政治にはノータッチ”の姿勢もまぁOKだと思う。
    まぁ、より個人的になると
    報道しちゃうマスコミさんも一部問題はあると思う。
    とってもいいけど、ちと考えましょうや。
    悪くはないんだけどね。
    あぁ理想論・・・

  2. 靖国の問題に関しては。
    いっちぇばいいんすよ。
    ネガティブなレベルに合わせてちゃ何もできなくなります。
    「あの人が嫌がるからやらない」とか。
    「あの人がうるさいから謝る」とか。
    そのうち自己矛盾がおきて崩壊しちゃいます。

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