祖父のこと

結局、ここ数日ぼーっとした瞬間に考えてしまうのは祖父のことで
あーでもない、こーでもないと、想いを巡らしています。
どうしても吐き出したくて、卒業制作がひと段落するまで待っていましたが、
ようやく書くことができます。
たぶん、つまらない事なので、これ以下は読まなくて結構です。


今更、孝行しようとも本人はおらず、
「その心が大切」だとおっしゃん(お坊さん)に言われても
どこか釈然としておりません。
おそらく物心あるうちで、初めて直面する人の死だったと思います。
先日、告別式と葬式が行われ、祖父も多くの人に慕われてたんだなぁと少し意外に思いました。
背がちっちゃくて、その割りに声が大きくて、元気なじいちゃんだと思っていても
世間では、小さいながらも会社の主だったわけです。
戦後の何もないところから、一代で会社を築きあげて、その会社を父や兄に引き継いだのですから
思えば大変なことをしたんだと、改めて思います。
祖父が癌だと知らされたのは昨年の5月のことでした。
まぁ、結論から言えば、永くはないのだと。
その癌は難しい病気で、つまりは発見された時には厳しい段階だったそうです。
「歳も歳ですし、病気とうまく付き合っていきましょう」という事になったのですが、
その時の選択が果たして正しかったのかどうかは、今となってはどうでもいいことです。
夏や秋に帰省して、元気な姿を見ながら、どう接していいのか良く分からない時もありました。
明らかに前よりは衰えていて、小さくなっているような気がしたのです。
そして、この冬帰省する前に、祖父は入院しました。
「覚悟しなければならない」
少し話しが飛びますが、一昨年の春に父が心臓の手術をしました。
それほど困難という手術ではなかったのだそうですが、部位が部位ですし、本人も不安だったようです。
入院の前に家族旅行に行くことになり(全員ではありませんでしたが)、その時に手術のことを母から聞かされました。
「大丈夫だと思うけど、もしかしたら最期になるかもしれないから、たくさん話をしておきなさい」
そう言われても子は困惑してしまいます。なかなか普段以上に話すことは難しいです。
たぶん、おそらく初めて身内の「死」を意識し、覚悟したのだと思います。
幸い、手術は成功し、父は元気に働いておりますが、病気持ちということで
会社の信用度の問題のために兄が会社に入社した次第です。
「世の常とはいえ・・・」
お見舞いから帰ったときに父がそう漏らしていました。父も覚悟していたのだと思います。
帰省してすぐ見舞いに行きました。
喋れるほど元気はありましたが、やるせない気持ちがふつふつと湧いてきて、
泣き出してしまいそうで、その場を早く立ち去りたくなりました。
まだ祖父は生きているというのに。
元旦の日もお見舞いに行き、その時は、人生のことをとつとつと説いておりました。
はっきり言って、全部ちゃんとは覚えておりません。
日に日に衰えていく祖父の姿を目の当たりにして、私はどうすることもできない悔しさだけが広がっていました。
祖母には詳しい病状は話しておらず、
祖母には「潰瘍がおさまったら、退院するんだ」とか言って、今思えば祖父は強がっていたように思います。
兄弟それぞれ握手をしてその日は帰りました。
次の日は上京の前に病院に立ち寄ったのですが、なかなか話せるような状況ではありませんでした。
もう既に癌からの出血が酷く、輸血と薬で抑えている状態だったようです。
帰り際に兄弟それぞれまた握手をして、最後に私が祖父の手を握って、
「がんばるから」としか言えませんでした。祖父は「うん、うん」うなづいていました。
それが、私と祖父との最期のやりとりです。
祖父が亡くなったと連絡を受けてからは、努めてそのことはあまり深くは考えないようにしました。
そのことで制作が進まないとか、仕事が手につかないとか言い訳にしたくなかったし。
2日に上京して3日の午後に訃報を聞きました。
2日から3日の夜がヤマだったそうで、兄が付き添っていたときに一度、上体が起き上がって、痛みを抑えるようにうずくまったそうです。兄が声をかけると「もの言うな」と退けたそうです。相当に痛かったのだと思います。どこまでも頑固な人だと。
4日にまた帰省しました。その日に通夜で次の日に密葬です。
実家はその準備でばたばたしており、業者さんは手馴れたもんだなぁと関心してたりしました。
準備の忙しさで気がまぎれたのか、冷たくなった祖父を目の前にしても不思議と涙は流しませんでした。
本当に冷たいのですね、死体というものは。
私が幼少の時、母方の祖父がなくなりました。
私はほとんど記憶にありません。広い座敷に白い服を着た祖父が寝ている姿をぼんやりと覚えているだけです。
その記憶がよみがえりつつ、祖父の姿を眺めていました。
通夜が終わって、少し酔いすぎた兄が祖父の顔を見ながら言うておりました。
「じいちゃんが満州から帰ってこなかったら、もしかしたら父もあんたも居なかったかもしれんのよ」
父は満州の生まれです。生まれてまもなく祖母とともに日本に引き揚げたのだそうです。
その何年か遅れで、祖父が引き揚げました。
祖父はよく満州時代のことを話してくれましたが、引き揚げのあたりのことは話してはくれませんでした。
満州で平和だった時期は、祖父にとって青春時代だったようです。
しかし、それ以降のことはまったく知りません。父によれば、話したくないほどつらい事があったようです。
祖父は戦後、何もないところから仕事をはじめ、会社を作り、町の工業の発展に尽くしてきたのだそうです。
人が良すぎたせいか、苦労もあったようですが、この不景気で、中小企業が生き残るのに難しい時代でも、会社が生き残ってることはすごいことだと思います。仲間に恵まれ、環境に恵まれ。あと時代に恵まれていたら、そこそこ大きい会社の主になっていたかもしれませんが、それは分かりません。
通夜・密葬と慌しい日々だったわけですが、祖父が白い箱にお骨が収まってしまった現実を見ると、なんともあっけないものです。
「こんなにちっちゃくなっちゃって」
祖母はそうぶつぶつ言っていました。
御棺におさめる時も、「こんなに冷たくなっちゃって」といいながら、祖父の頬をペシペシと叩いていました。
そんな祖母の姿が不憫でなりませんでした。
一番辛いのは祖母なんじゃないかって。
あっさりとはしてましたが、後姿がなんとも寂しくて、とくにかく祖母の傍に居ようと。そういう気持ちになりました。
何十年と連れ添った相方が、冷たくなって動かなくなるのです。
その時、自分はどう思うのか想像もつきません。
ある人が死ぬ時に「あなたに会えてほんとに幸せだった。ありがとう。」って言えたらと言っていました。
私も本当にそう思います。しかしながら、祖母の姿を見ると、愛する人よりは先に絶対に死んではならないなと思いました。独り寂しい思いはさせてはならないんだと。
父でさえ60年ほどですか。人生の中で一番ながく一緒に時を共にするのは夫婦でしょう。おそらく。
子ですら20年ほどで独立し、それ以降、それぞれ家族をもつでしょう。
私の祖父との記憶は十数年ほど前から始まります。
その間、あまり印象は変わっていません。
声が大きくて、お酒が好きで、毎日、田んぼ見に行って。
それぐらいしか、記憶にないのです。
私はそんなに元気のいい子ではありませんでしたし、4人兄弟の歳の離れた末っ子でしたし、深い交流ができていないような気がします。
人並みにでも会話をしたのでしょうか?
私が小さい頃、抱き上げてくれたのでしょうか?
そして、たくさん可愛がってくれたのでしょうか?
22年間、時代を共にしても、私にはその様な記憶が不本意ながらも無いのです。
神様のいたずらか、もうすぐ甥が誕生する予定です。
長兄の子で兄は祖父に「4代目を見てほしかった」とつぶやいておりました。
「もしかしたら生まれ変わりかもね」なんて話をしています。
従姉も結婚し、もうすぐ子どもが生まれる予定です。
「一つの時代が終わったんだな」と。そして新しい命が誕生します。
その移り変わりが世の常なのでせう。
自分の子を両親に見せることは難しいだろうけど、願わくば、
祖父の曾孫であった双子の姪に、あなたたちは曾おじいちゃんに可愛がってもらったことを
なんとなくでいいから、覚えておいてほしいです。
そして、両親と祖母にうんと可愛がってもらって下さい。

「祖父のこと」への2件のフィードバック

  1. ご冥福をお祈りします。
    おじいさんのことはモチから聞きました。何か力になれることがあるといいのですが・・・。あまり1人で色々なものを持とうとしないでね。

  2. あぁ~、大丈夫ですよー
    ここで吐き出さないと抱えてしまいそうなので吐き出しただけです。
    失礼しました。

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