映像における広告を考える

hirakuのblogに「テレビコマーシャル時代の終焉」の記事をピックアップしてあったので、触発されて広告について少し書いてみる。
ようすけが面白い事を言っていた。
「TV局はCMを見せるために、必死にくだらない事をして、代理店は必死にCMで商品を売り込もうとしている。その落差が面白い」って。一概にそうは言えませんが、ゴールデンタイムのバライティ枠とかはほんとそうかもしれません。
えぇ、広告はいつでも必死に商品を売り込んでいるのですよ。その必死さ故に、15~30秒で印象を与えるためにイメージ先行のカタチが多くなったと思うのです。
その反面、視聴者側にとってはCMは昔からトイレタイムだったり、休憩時間だったりするわけです。
今更、民放連がCM自動飛ばしが問題だと騒いだところで、おかしな感じがしますが、
おそらくこの苦言は広告代理店やTV局側に配慮した発言だと思います。「私たちは問題意識がある」と。
もっと言えば、今までのCMの広告モデルに限界が見えてきたと。
CMがうまれて半世紀以上経つわけで、CMは広告という機能よりも映像作品としての質が成熟したように思います。ヤナギも「(CMを)見るとしても、その商品を知る為より、CMを作品として見るという感じ。」なんだそうだ。私も同じ理由でCMを集めたりしてます。音楽や企業のプロモーションビデオも同じ理由で集めています。
トイレタイムやDVD録画でスキップされる一方で、CMマニアなんて生まれているのも現状であります。
これはある意味CMの空洞化と考えています。あまり健康的ではないようにも思います。
CMがまったくもってして本来の機能をはたしていないのですから。
CMが映像作品に近づく一方で、映像作品に広告が溶け込むケースが増えてきました。
例えば、その商品をキーアイテムとしたショートフィルムをWEB上で公開するとか。
また、これはあるハリウッドのSF映画のケースですが、出てくる生活雑貨そのたもろもろ(車まで)、スポンサーのコンセプトモデルだったりするのです。わざわざ主人公の家にあるオーディオにクローズアップしたり、わざわざ主人公の履く靴をクローズアップしたりするのです。(ハリウッドもお金ないんだなぁ)
なんなんだ一体。。。
かつてCMは映画館でも放映されていました。映画館の方が視聴率があったからです。しかし、みんなの生活にTVが溶け込んできて、現在のようなカタチ(モデル)になったのでしょう。
そして、人々はTVから離れつつあります。TV見ない人は本当に見ないですしね。もっぱらCATVだけという人もいるでしょう。その方が面白いですし。時代の流れと言ってしまえばそれまでなのですが。
映像における広告についていえば、CMは映像の開拓地だったように思います。常に新しい表現が求められ、多くの映像作家が誕生しました。ミュージックビデオについても同じ現象がおきています。
その一方でかつて開拓地だった映画には、本来の映像表現以上に広告としての機能が求められ始めています。ありえない。。。でも、それが進化系なのかもしれない。


もう少し、広告について考えてみる・・・
私の考える健全な広告って、シンプルな事なのですよ。ストレートであること。
健康的な映像っていうのは、素直にいい表現であること。素直にメッセージを伝えようとしてる事です。
それが今、少しまどろっこしいというか、いろいろな思惑が見え隠れしてしまうのが気持ち悪い原因なんでしょうけど。
そこで最近、興味を持っているのは「刷り物」です。いわゆるポスター。
雑誌などの広告よりは、街に溶け込んでいる看板に興味惹かれます。
写真にしろグラフィックにしろ、場所柄がよく反映されていると思うんですよね。
それに分かりやすい。街の景観を損なうこともない。むしろブランディングとしての機能をはたしている。
例えば、表参道にある広告は、その土地柄を考えた広告が多いですし、新宿や渋谷、それぞれに同じような事がいえます。
そこで気になるのは「場所」というキーなのです。
今までにも重視されていた要素だと思いますが、
最近注目する動きとしては、地方自治体で映画を撮る動きがあります。
今の姿を残しておこうとか、さまざまな思惑がありますが。
おそらく、その土地の人が見るのと他の土地の人が見るのでは感覚が違うでしょう。
これからの映像や広告の姿のヒントがありそうな気がしました。

「映像における広告を考える」への2件のフィードバック

  1. //長くなってすんません//
    だって、映画館は逃げられないしねw
    最強の媒体だと思う。上映料とってるのにね。
    でもむしろそれくらい見せ付けてもいいと思うけどね。
    まぁ、CM自体のあり方は変わってきたよね。エンタメ方向に
    今回はコンテンツよりのお話ではあるのでちょっとお門違いかもしれないけれど、元記事で似たようなネタフリがあるのでカキコ
    CMって、上から映像の23本目辺りの走査線に信号を入れることで「この映像はCMである」という意味を持たせているらしい。その信号はとある機械でチェックされてスポンサーに発信されるんだって。しっかり放送局がCMを流したかどうかを。
    昨今のCM飛ばし機能はこの辺を利用している模様。と、某局の方にご教授されたことがあります。
    そういや、昔は音声のチャンネルがCMになると減るところを利用してCM飛ばししてたなぁ。だから新しいCMだと判断ミスるのw
    そういうの考えると、放送局側は順序入れ替えるのも不可能なので(苦笑)視聴者側が故意に飛ばすのは違法ではないと思う。どのみち、スポンサー・局どっちにとってもお客さんだしね。ただ、その内部的な処理(システム)を逆手にとって便利さを「商品」にして売ってしまった企業は軽はずみな商品企画(言ってしまえば違法)だったんじゃないかなって思います。

  2. 南米のある国のCMで映画の間に流すことを想定して
    まるで映画の1シーンのようなCMが話題になってました。
    視聴者は映画が続いてると思って見ちゃうのね。
    でも、そんなコードが隠されてたらしょうがないっすね。
    軽はずみな企画だったとはいえ、視聴者側にそういう需要があったことは注目すべき点だと思う。

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