僕は才能に嫉妬する

※最近、何も生み出していないような気がする。
かの発明王、トーマス・アルバ・エジソンは良いこと言ったなぁと思います。
「発明は1%のインスピレーション(ひらめき)と99%の努力だ」
しばしば、「才能だけではだめで努力があって成功する」というような解釈をされますが、私は別の解釈をしています。なにせ、人一倍名声欲の強い性格破綻のエジソンの事ですから、次の様な意味合いが含まれているように思うのです。「いくら、努力しても99までしか達成できず、1のインスピレーションが無ければ100に達成する事ができない(僕にはそのインスピレーションがあるんだ)」随分とひねくれた解釈ですが、小学生ながらそう思ったものです。その1の差がいくら努力しても勝てない理由だったりするのではないかと思うのです。
私は世の中で天才だと言われる人はほとんど努力家だと思っています。努力する才能も持っているのだと考えているのです。その努力の仕方は個人差があるでしょうけど。例えば、この前のオリンピックでも柔道の金メダルをとった谷選手はほぼ連続的に練習を繰り返していますが、同じ金メダルをとった野村選手は非連続的に練習をしています。なんせ、1~2年も柔道から離れていたりするのですから。おそらく野村選手は練習や試合の時の集中力が異常なんでしょう。谷選手にしてもあれほど継続できるなんてある意味異常です。そんな点が才能を持つ人の特性なのかなと思うのです。
ときどき私は勘が働きます。例えば、センター試験の数学の穴埋めでなんとなく数字が浮かびあがってきてしまったり。なんとなく答えが分かってしまったり。では、それが才能かと言われると、数学に関して言えばそれらは経験から生み出される勘だと思うのです。勘の源は経験の積み重ねで、つまり、努力することで勘は磨かれるような気がします。
では、その勘がエジソンの言うインスピレーションかというと、違います。勘には経験以上の結果を出す事はできません。限界があるのです。それ以上いったら、たまたま合っていたとか、そういう事です。インスピレーションはそれ以上を生み出せるような気がします。別の言い方をすれば、インスピレーションは0から1を生み出せる力だと思うのです。勘だとかいうたぐいは今ある材料から新しい組み合わせを生み出す事はできるけれども、無からは何も生み出せないと思うのです。
私の身近な人で「この人は才能がるなぁ」とか「この人は天才だなぁ」と思う人は、やはり、努力家だと思います。自分は中学くらいの時から意識して楽をして生きてきたので、彼らを見るととても羨ましいと思いますし、嫉妬もしてしまいます。彼らは0からとても斬新な発想を生み出します。結局のところ、私は、調査して、パターンを抽出して、隙間がないか探して、構築していくしかできません。
彼らの0から生み出す力に嫉妬しつつも、彼らが作り出すモノがたいてい好きだったりするので、結局、複雑な心境になりながらファンになってしまったりするのです。

6月のネタ帳から

※7月になっちゃったけど。
■ブックマーク
というよりレジストリというかなんというか。
なんかみんな感動した時の瞬間をとどめようとしている。
映像とか音とか。特に男は写真を撮りたがる。
一番大切なのはアウラなのに。保存も再現もできない。
だからこそ儚い。
舞台とか見てるとそれが一番の魅力だと思う。
■電波を借りる
電波の届かない所にいるとき、人の携帯の電波を借りながら通信できないかなぁ
と思ったけど、電波を発信するのって非常に電力を消費するので無理ですね。
いつの間にか電源が減ってたとかって嫌ですしね。
■ミーム 「meme」
「人々の脳から脳へ複製される文化的伝達の単位であり、『文化的遺伝子』とも言われる」
実はあんまり認知されていない概念。
数学とかデザイン(特に建築とか)を勉強してる人にはよく分かる概念なのでは。
「人間が進化するように文化も進化する」といったところだろうか。
■GPSの弱点
と思っていたのが、どうやら技術はあるようです。
それは高度を測ること。数メートル単位で高度が分かるのだそうだ。衛星で。
それが実装されていないだけなんだそうだ。
■expressとdesign
表現とデザインは違うんですよ。
表現はexpress。外に押し出すんだから。
んで、デザインは設計・構築なんだわな。
■道具の話
高校の時、小論文を書いてて思った事。
便利な道具ほど便利だと思って使う事はないなと。
むしろ、道具には不便に思って使う方が多い。
■ライフポーション
生に対して重みを感じるか。
姪が生まれて、だっこした時、
腕の中におさまる物体が
息して、鼓動して、あったかくて、
思わず涙しそうになった事がある。
生にはきっと大きなエネルギーがあって
生まれる度に、または死ぬ度に
そのエネルギーの可変に感動して。
—-
「ライフポーション」は何らかの情報を与えるとう言うよりは
あなたが生きている証拠であってほしい。
生を感じとれる装置であってほしい。
※「ライフポーション」概要
白いただの小さい球体。
触ると若干発熱し、若干発光し、若干重心が動く(ヤナギ提案)
入力情報は体温と心拍数etc
■DNAはプログラムなのか
専門じゃないので深くは触れませぬが
たった4つの塩基で成り立つのがどうも腑に落ちないのよねぇ。
■トーンとしての少女性
最近ロリータが流行りの様だが。
いわゆる少女(処女性だとか)に宿るものではなくて
全てのモノにあるような気がするわけです。
健気さとか、ひたすら感とか。
つまり、処女とか少女である必要ではなくて
ただ宿主として少女が最も美しい。
※WEMのメモが多い1ヶ月でした。

数学はめんどくさい学問

今更こんなこと言える立場じゃないんですけどね。
私は高校までは数学が得意な方でした。小学校の時は苦手で嫌いな科目だったのですが、
公文式をはじめてからめきめきできるようになりました。
って、公文式の宣伝をするつもりはないんですけど、私にとっては良い学習方法だったと思います。
今までの経験から、ちょっと思ったことをつらつらと書き留めてみます。
1.『いわゆる日本の学校の数学は「めんどくささ」が重要である』
例えば、「公式はなぜ覚えるのか?」答えは「楽だから」です。
いちいち計算するのが面倒くさいから、公式を見つけたり、それを暗記するわけです。
私はほとんど独学みたいなものでしたから、自分なりの公式や法則などを幾つか発見しています。
ある意味、裏技として捉えられてしまいますが、そんなこと言ったら、高校で習う公式など
ほとんど裏技に近いでせう。
2.『数学のテストの数字はやった問題の量に比例する』
勉強しなければテストの点数なんてなかなかあがりません。
日本の教育ではテストの形式は限界に達しつつあつので、
ある程度のパターンを発見してしまえば、あとは計算を丁寧にやれば正解するでせう。
また、「勘で正解してしまった」ということがよくありますが、はっきりとは言えないものの、
問題の消化の蓄積によるものだと思われます。無意識のうちに数字が生成されるという事がよくあります。
私の頭が最高潮の時は、ちょっと重い乗除の計算は勝手に手が動いた時もありました。
ここで私が危惧することは『感覚の麻痺』です。便利なモノはいつのまにか当たり前になるし、
公式に当てはめれば解けると思ってしまうのはあまり好ましくありません。数学以外にも言えることで、
根本的な「めんどくささ」を分かった上で、公式を使わなければならないのだと思います。
数学の授業で、一応、公式の証明をしますがあまり重要視されません。
数年前の東大の入試問題にある公式の証明問題(三角関数の加法定理の証明)が出題されました。
根本的な論理の展開が要求されました。(三角関数の定義(sinθってなんぞや?)から証明を始めなければならなかった)
つまるところ・・・いつか足下すくわれますよって事です。

『創造は発見である』

 何か表題がエラそうですね。でもコレは私が常々思っていることです。ちょっと数学チックな説明します。
 例えば音楽について。西洋音楽の場合、12音×8オクターヴと2の累乗分割のテンポですべての音を定義します。
作曲する時、永遠に続く曲は現実的に不可能なので適当な時間枠が生じます。すると無数の音の組み合わせが数えることができます。
けれども無限ではありません。限界があるのです。
その全事象を1とすると、実際に良い曲と聞こえる音の組み合わせは1のうちの何割かにすぎません。
そしてさらにその何割かはスコアとして我々は目にしているでせう。残りの何割かを作曲家たちは『発見』しようとするわけです。
 これはシナリオなどにも言えることで、シェークスピアでほとんどのパターンは出尽くしたと言われています。
奇抜なパターンを見つけたとしても、それは先人がすでに発見したものの淘汰されたものかもしれません。
 極端な言い方をしてしまえば、我々がゼロから創り上げたモノと思っているモノはすでに何処かに存在していて、たまたま我々が
『発見』したのではないかと思うのです。だから私は新しいストーリーやアイデアが浮かんだときは『あっ、見つけた』と叫びます。
たとえバッハが小フーガを作曲しなくとも、いずれ誰かが同じモノを作曲したのでは無いかと思うのです。
 万有引力や微分積分法を発見したニュートンの遺言にはこんな行がありました。
「私の発見したものは海岸で拾った小さな貝殻にすぎない。
しかし前を見れば広大な海があるではないか」(確かこんな感じでした)

受験体験記

 あの怒濤の大学受験からもう1年が経つわけで、いろいろな想いを書いてしまいたいと思う。
ところで今、受験生の人は頑張って欲しいものである。
・受験勉強
 率直に「自分のために頑張ることは難しいことだな」と思った。
自分の勉強は人に比べてやったかやってないかよく分からないけど、
ある意味自分の欲望のための努力はけっこうきつかったなと思った。
 これが人のためだとか世の中のためだとかという努力は意外と楽なもので、
成果があろうとなかろうと、その動機を疑うことはない。
 それとは逆に、自分の目標は本心からの欲求なのか疑ってしまう。
「本当にオイラはあの大学に入りたいのかなぁ」って思ってしまうのだ。
 実際、自分で思う受験勉強期間は3ヶ月で、それまでの高校生活は好きな勉強(っていうか数学)しかしてこなかった。
志望大学に小論文があることは前々から知っていたけど、私は大の国語嫌い。心の中では泣きながら筆を動かした3ヶ月だった。
・受験
 そんな事考えてるうちに、もう本番で目の回る忙しさの後、めでたく合格。気がついたらもう入学式だった。
ほんの数週間前はあんなに狼狽していたのになんか不思議な気分。
ある友人は残念なことに浪人となってしまったり、一人はしゃいでいられないとも思った。
・そんで1年経って
 受験勉強の反動からか、えらい遊んでしまって学期末にバカをみた私ですが、改めて受験とこの1年を見つめ直してみると、
これで良かったのかなぁと思う部分と第一志望に入れたオイラは幸せだなぁと思う部分があったり、複雑な気分。
一番痛感したことは、大学に入ってからの過ごし方で自分の受験の評価がされることだと思った。周りからの評価もそうだし、
自分の中での評価もそう。